【書評】最愛の息子の壮絶ながん闘病記:ジョー・バイデン著『約束してくれないか、父さん――希望、苦難、そして決意の日々』
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バイデン大統領の長男ボー・バイデンの発病は、2013年夏のことだった。脳に腫瘍が見つかり、テキサス州ヒューストンのMDアンダーソンがんセンターで摘出手術を受けた結果、悪性の膠芽腫(こうがしゅ)と判明した。平均余命は12~14カ月。しかし、100人に2人は腫瘍が消滅する「寛解」に至っている。治療法は目覚ましく進歩しており、ボー自身、またバイデン一家もがんの克服を信じていた。
さて、タイトルを見て、これは美化された家族愛の物語と思われるだろうか。そうした先入観はひとまずおいて、本書を手に取ってほしい。私は書き出しから惹きこまれた。いきなり闘病記に入ってはいかないのである。要約すれば、以下の通りだ。
バイデン家では、ケープコッドからフェリーで南へ1時間ほどの距離にあるナンタケット島で感謝祭の休暇を過ごすことが恒例行事となっていた。デラウェア州ウィルミントンにある自宅から、バイデン自身が運転する車に家族を乗せて8時間かかる長距離移動の旅だった。
ここで家族が紹介される。再婚した妻のジルと長男のボー、次男のハンター、その下の長女のアシュリーである。
しかし、2009年、バイデンが副大統領に就任した年から、生活は一変した。住居はワシントンDCにある、アメリカ海軍天文台の敷地内の副大統領公邸となる。そして感謝祭には、一家は揃って副大統領専用機「エアフォースツー」でナンタケットに飛ぶことになるのだ。副大統領の身辺警護の必要性からである。
それはこんな光景だった。装甲を施した政府専用リムジンに乗った副大統領は、シークレットサービスに守られ車列を組み、公邸からワシントンの南端を通過してアンドルーズ空軍基地へ向かう。そこで孫をまじえた子供たちの家族と合流し、専用機でナンタケットへ飛ぶのだが、現地にはわずか1時間あまりで到着した。
ここで興味深い記述がある。副大統領には重大な職責があった。
その晩、ワシントンの通りを駆け抜けていく車列のどこかに、副大統領の軍事補佐官を乗せた車もあった。その車は、つねに私の手の届くところになければならない「核のフットボール」(核兵器を発射するための認証コードが入ったかばん)を運んでいた。私は、地球上のほぼすべての標的に核攻撃を仕掛けられるコードを扱える、ごく限られた人間の一人だ。副大統領の重大な責任と、私に託された信頼を思い出させるものが、一日も欠かさず、二四時間、私の傍らにあった。
この感謝祭の恒例行事を振り返り、バイデンはこう述懐している。
副大統領の職務は冒険に満ちたすばらしいものだったが、ジルも私も、以前の生活をなつかしく思うことが多々あった。
長距離移動の旅が、家族の絆を深めていったのである。
少し補足をしておけば、ジョー・バイデンは29歳の若さで連邦上院議員に当選。その直後に、妻と3人の子供たちを乗せた車がトレーラーに激突され、妻と1歳の娘を失った。残された長男ボーはまもなく4歳、次男のハンターは3歳になるところだった。ジルとの再婚後、島への旅が始まることになる。
「副大統領になりたいとは思わない」
ボーが発病したとき、バイデンはオバマ政権2期目で引き続き副大統領の要職にあった。副大統領といえば政権ナンバー2である。
だが正直なところ、副大統領とはじつに変わった職務だと認めざるをえない。副大統領の職責には、奇妙かつ特異な柔軟性がある。
と、バイデン自身が説き起こす。
それはどういうことなのか。
憲法の厳格な定めによって、副大統領はほとんど権限をもたない。彼あるいは彼女に課された役目は、上院の議決が賛否同数になった場合に決定票を投じること(六年近い在任期間で私はまだそれを求められたことはない)と、大統領がなんらかの理由で職務を遂行できなくなった場合に引き継げるよう待機していることである。
それだけに、オバマから副大統領職を打診されたとき、バイデンはそれほど乗り気ではなかった。
私を副大統領候補として考えているとオバマから初めて電話が入ったのは、二〇〇八年の六月、大統領候補の指名を受けるのに必要な代議員数を確保してすぐのことだった。
バイデンはこう答えた。
「できることならなんでも手伝おう。だが、副大統領になりたいとは思わないんだ」
バイデンはここまで上院議員を35年間務め、上院外交委員長の要職にあったのだ。副大統領というポストにそれほど魅力は感じておらず、ひとまず家族と相談してみると答えておいた。しかし、
・・・家族の反応は予想外のものだった。全員が口をそろえ、オバマの依頼を受けるべきだと言ったのだ・・・
「大統領、自分の直感を信じればいい」
「あらゆる重要事項の決定に最後までかかわる人間になりたい」
それが副大統領職を引き受けるに際し、バイデンが出した条件だった。オバマは快諾した。
バイデンはこう記述する。
かつてこの役職に就いたことのある人物が、「バケツ一杯の唾ほどの価値もない」と発言したのは有名な話だ・・・副大統領が実際にどのような権限をもつかは、大統領がどれだけ副大統領に信頼を寄せているかによってほぼ決まる。
バイデンは、ベンジャミン・フランクリンが副大統領を「無用なる閣下」と呼ぼうとしていたとか、アイゼンハワーとニクソン副大統領との冷めた関係のほか、いくつか興味深いエピソードを紹介しているが、では、オバマとバイデンの関係はどうだったのか。
バラク・オバマは、合衆国大統領就任一期目から私に重要な案件を任せてくれ・・・大統領が私を不安視することはなかった。
と、バイデンは書いている。信頼関係を築いていくために、
二人だけで話ができる定例ミーティングを毎週行い、その場でそれぞれの思いをどんなことも忌憚なく話そうと決めた・・・恒例のランチミーティングは、誰かに聞かれる心配もなくざっくばらんに話せる唯一の場だった。
どんな話をふたりでしていたのか。例えば、バイデンはオバマにこんなアドバイスをしていた。
・・・彼が慎重すぎるのではないかと思うことがあった。「大統領、自分の直感を信じればいい」そんなときにはこう言ったものだ。重大な決定を早急に求められた場合、大統領が得られるのは必要な情報のせいぜい七割だと、長年の経験からわかっていたからだ。だから、ひととおり専門家の意見や統計資料、データ、機密情報などを確認したら、躊躇なく自分の直感に頼ればいいのだ。
バイデンはオバマからどのような権限を与えられ、何を成し遂げたのか。それが本書のもうひとつの読みどころになっている。
「すでに民主党期待の新星だった」
ボー・バイデンは、ガン発症から3年後の2015年5月に亡くなった。享年46。彼は、デラウェア州の現職の司法長官であり、来る州知事選挙に立候補を表明していた矢先の、早すぎる死であった。
父親の目から見た息子はこうだった。
ボー・バイデンはすでに民主党期待の新星だった・・・彼は州で最も人気の高い政治家と広く見なされ、父親よりも人気があった。デラウェア州の住民は彼のなかに、私の足跡を見ていた。四五歳のボー・バイデンは、言わば「ジョー・バイデン2・0」で、私のよいところをすべて兼ね備えつつ、バグや欠点は巧みに除去されていた。
そして、
ボーはいつか大統領選に出馬し、弟の支えを得て勝つことも可能だと私は確信していた。
本書の主題はボーが亡くなるまでの壮絶ながん闘病記であり、その様子が時々刻々と、克明に綴られている。ここでは簡単に経緯を記しておく。
2013年の夏の終わりに治療が始まった。14年4月、治療開始から8カ月が過ぎたところでボーの発話能力に問題が出始めた。その年の夏、右腕と右足に痺れを感じるようになったが、その間も州の司法長官としての職務を続けていた。
15年に入り、
ボーの脳内のがん細胞は急速に増殖し、新たな場所に広がっていった。
3月、生ウイルスを投与するという最新の免疫療法を試みることになった。膠芽腫治療では初めて行われる実験的な治療である。それが最後の拠り所だった。
ボーと私たち家族にとっての本当の戦いはいま始まったのだ。
バイデンは、多忙のなか、可能な限り息子を見舞っていた。
ホワイトハウス通信局は、私しか対処できない緊急事態が起こった場合に備えて、ボーの病室の近くの部屋に盗聴対策済みの電話回線を引いていた。
5月、最期の場面―-。
そして医師たちは、ボーの脳の状態を元に戻すことはできない、と言った。ボーを救うすべはない、と。「彼はもう回復しません」
それは、私が人生で耳にしたなかで最も心を打ちのめす言葉だった。
葬儀から4日後、公務に復帰
しかし、ボーの葬儀から4日後、バイデンはすぐに公務に復帰する。それは彼でなければ対処できない、いくつもの外交案件を抱えていたからだ。
バイデンは、オバマと定期的に2人だけで会合していることは先に述べたが、
二〇一五年一月五日のランチミーティングで、私たちはまず、当時私が指揮をとっていたいくつかの重要案件についてざっと話し合った。
それは、オバマ政権の外交政策で三大重要案件とされたイラク、ウクライナ、中央アメリカについてであった。
イラクの問題とは、同国での支配地域を拡大するイスラム過激派組織・イスラム国(ISIL)をイラクやシリアなど中東諸国の協力を得て弱体化させること。
ウクライナでは、ロシアのプーチン大統領が米欧と交わした合意を破り、依然、ウクライナ政府の転覆を図るため、反政府勢力に軍事支援を行っていた。そのため、バイデンは、2月初めのミュンヘン安全保障会議に出席し、NATOの同盟国にウクライナへのいっそうの支援を強く訴えた。
さらにラテンアメリカの政情安定化を図るための戦略の一貫として、中央アメリカの北部三か国との首脳会談も予定されていた。
こうした外交案件について、バイデンはどのように対処していったか。
バイデンは、各国の首脳と直接やりとりした舞台裏をつぶさに明かしており、それは非常に興味深いドキュメントになっている。
「勝てる自信もあった」
そして、本書の最大のハイライトは大統領選をめぐる記述である。
民主党からは、すでにヒラリー・クリントンが出馬を表明している。バイデンも立つつもりでいたが、ボーの闘病生活が気がかりだった。
二〇一六年の私の選挙運動開始は遅くなりだろう。だから何だというのだ。これからの数か月をボーが乗り越え、生きて帰ってこられれば、それから始められる。そうわかっているのだから。
と、バイデンは心境を吐露している。彼を支える選挙スタッフは、着々と出馬の準備を進めていた。組織作りや巨額な選挙資金集めなど、その内幕が赤裸々に語られる。
ヒラリーを相手に苦戦を強いられるのは覚悟していたが、その反面で勝てる自信もあった。
オバマもヒラリーも、有力候補であるバイデンの去就を気にかけている。
大統領選挙をめぐり、バイデンはオバマとどのような会話をかわしたか。また、ヒラリーはバイデンに面会を求め、彼の意向を直接確かめに来たが、このあたりの会話をまじえた描写は生々しい。
5月、ボー・バイデンは逝去した。
・・・ボーを失った悲しみが状況を一変させた。立候補を表明してしまえば、たとえ最高の環境が整っていたとしても、とてつもなく重い責任を背負うことになる。いまから心の準備をしてその責任を果たせるのか、私には自信がなかった。
バイデンは、大統領選挙への出馬を断念した。しかし、ボーは父親を鼓舞する言葉を遺している。
「父さん、ぼくを見て。こっちを見て、父さん。忘れないで。ホームベースに立つんだ、父さん。ホームベースに」つまり彼は、こう伝えていた――つねに自分の信念を胸に、何が大切かを忘れることなく、自分の理想に背を向けず、勇敢であれ。
「約束してくれないか、父さん。どんなことがあろうと大丈夫だと」
バイデンが本書を書き終えたのは、2017年春のことである。
ボーが遺した言葉が父親に勇気を与え、2020年、ジョー・バイデンの大統領選出馬を後押ししたのであろう。
『約束してくれないか、父さん――希望、苦難、そして決意の日々』
ジョー・バイデン(著)、長尾莉紗・五十嵐加奈子・安藤貴子(訳)
発行:早川書房
四六版:309ページ
価格:2420円(税込み)
発行日:2021年9月15日
ISBN:978-4-15-210046-7