【書評】彼らが歩き続ける理由:村山祐介著『エクソダス』
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真っ先に、表紙の写真に目を奪われた。
まっすぐ前を向く母親らしき女性に抱えられた男の子は、眉を寄せ、やや不安そうに母親とは違う方向を見ている。ぎゅっと口を真一文字に結んだ母とは異なり、少し開いた口元からは、不安な息遣いまでも伝わってくるようだ。
彼らの名前も、今どこにいるのか、さらにいえば生きているかどうかすら、誰にもわからない。
著者とこの母子が出会ったのは、2019年2月、メキシコ中部。
だが彼らはメキシコ人ではない。
2000km以上離れたホンジュラスの首都、サンペドロスーラからやってきていた。
祖国を離れたのは1カ月半前だ。
以来、アメリカ入国を目指す1000人余りの「キャラバン」の一員として、アメリカとの国境があるメキシコの都市・ティファナへと移動し続けてきた。
数百人~数千人という単位で人々が移動するこの「キャラバン」が増え始めたのは、2018年頃だという。
これほどの規模になると、“中継地点”の国々や自治体は、余計なトラブルなくキャラバンを自分たちの管轄から送り出すことに注力を注ぐ。
地元民とのトラブルを避けるため、公民館や体育館といった宿泊場所を用意するほか、「ライド」と呼ばれるヒッチハイクも黙認され、ときには自治体が大型バスや警察車両、救急車などを手配して、速やかに自分たちの責任範囲からキャラバンを運び出そうとする。
それでも、1カ月半もの間移動を続ける生活は、疲労が蓄積する。
特に小さい子どもや女性には過酷で、1日数時間、時には1日おきに歩くのがやっと、という人も増えてくる。
著者はそんなキャラバンとともに行動し、キャラバンの実態を取材する。
冒頭の母子と出会ったのは、自治体が手配した巨大なダンプカーに移民と一緒によじ登ったときのことだ。助手席からさらに荷台へと移動すると、一段高い屋根に腰かける2人が目に入り、シャッターを切ったという。
「母親の腕の中で不安げに周囲に向けていた目は、だんだんと遠くを見つめるまなざしに変わっていった。少年にこの日の光景はどう記憶されるのだろう」
「国境を心行くまで堪能しよう」
2020年11月、ジョー・バイデンが第49代アメリカ合衆国の大統領として当選を確実にした。
その4年前に大統領の座に就いたのは、「メキシコ国境に壁を作る」と公約を掲げたドナルド・トランプだった。
アメリカの雇用を奪い、安全を脅かしているのは、メキシコ国境を突破してくる移民たちだと訴え、「再びアメリカを偉大な国にする」ために移民排斥を是とするトランプの主張は、いわゆる“エスタブリッシュメント”とは違う層に広く支持を広げ、泡沫候補から一転、当選を手繰り寄せた。
トランプの「壁」は世界から注目を集め、著者が所属していた朝日新聞の日曜版「GLOBE」編集部でも、「壁」をテーマにした企画が決まる。だが、すでに壁について論じたルポは溢れていた。
ここでの発想転換が著者の持ち味であり、結果として本書の出発点となり、さらには著者自身の人生まで変えてしまう。
「米国とメキシコの国境は約3200キロ。壁があろうがなかろうが、端から端まで、国境を心行くまで堪能してしまおう」
結果として、著者の取材はメキシコ国境だけでは終わらない。
取材を重ねるほど知らない事実が目の前に現れ、「なぜ?」という疑問が生まれてくる。
その「なぜ」を放り出せない著者は、メキシコ国境からグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスと南米大陸に取材の場を移し、最後にはコロンビアの密林まで足を延ばす。
そこで出会ったのは、南米だけでなく、アフリカやアジアからアメリカを目指す移民たちだ。
彼らはビザが必要なルートを回避するために、わざわざ南米大陸からアメリカを目指していた。最短距離に比べれば何十倍という距離が必要になり、ボロボロの船で海を渡ったり、危険が潜む南米の密林を歩き続けたりしなくてはならない。
一緒に出発した仲間は、いつしか一人減り、二人減り、半数程度になってしまったという女性もいた。
「(仲間を)待てというんですか?アイ・ドント・ノー。(中略)1人だったし、ただ生き残るのに必死でした」
「母国で家にいて治安部隊に射殺されるのを待つより、多くの人たちは密林で死ぬ方を選ぶでしょう」
そう話すのは、25歳のカメル―ン人男性だ。
ギャングに覆われ、命だけはと懇願して幼い子どもの目の前でレイプされた若い母親もいる。
彼らのうち、無事にアメリカにたどり着ける人がどれくらいいるのだろうか。1割、いや、1%もいないのではないか。
それでも彼らはアメリカを目指すのだ。
祖国に残りたくても、殺されるからと。
僅かな賃金では、大勢の子供を養えないからと。
最初は個人という点だった動きはいつしか、国から国を人が移動する大きなうねりとなっていた。
そのうねりこそ、タイトルにある「エクソダス」――国外への大量流出――だ。
国境を越えなくても生きていける世界を
2020年。
トランプがホワイトハウスを去り、バイデンが大統領になったからといって、問題の根幹は変わらないだろう。
なぜなら、世界は繋がっているからだ。
アメリカがエクソダスにNOと言っても、国を脱出する人々は減らないだろう。
問題は「メキシコ国境に壁を作る」ことでは解決しない。かといって、移民を受け入れ続けることが正解でもない。
「壁」という言葉は問題のごくごく一部しか表現していないことを、著者の執念とも信念ともいえる取材が、その現実を突きつけてくる。
国境の取材を終えて半年、社内異動で本社のデスク業務に就いていた著者は、19年務めた朝日新聞を退職することを決める。
そのきっかけは、アメリカとメキシコの国境の川で溺死した、25歳の男性と1歳の娘の写真だった。
「驚いたのは、国境の壁に向かう移民たち追った日々が、あっという間に自分の意識から遠ざかっていたことだった」
「いったい、いつまで、こんな不受理が繰り返されるのか。この狂気に満ちた国境の現実を、私はまだ伝えきれていない」
本書は、一人の新聞記者が、人生を賭けて追うべきテーマに出会った過程を描いた一冊ともいえる。
いわば、新聞記者からの「卒業制作」だ。
「国境を越えなくても生きていける世界を」は、エピローグに出てくる著者の言葉である。
著者が国境の現実を伝えることでそこに至る道が少しでも見えてくるとしたら、それが、ジャーナリストが世の中を変える、ということなのだろう。
エクソダス
村山祐介著
発行:新潮社
四六変型判 320ページ
価格:1800円(税別)
発行日:2020年9月17日
ISBN: 978-4-10-353651-2