4章 新型コロナが残したもの:(5)世界の科学技術の潮流から取り残された日本
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G7最下位の科学技術力
日本の科学技術力の衰退が叫ばれて久しい。私も国立大学で10年余り教鞭(きょうべん)をとり、欧米や中国の大学や研究機関でも学生を教えてきた。こうした経験から、バブル崩壊以降、日本の科学技術力が劣化していくのを肌で感じてきた。それは、研究成果である論文数の落ち込みぶりに如実に表れている。
「文部科学省科学技術・学術政策研究所」は2022年8月、「科学技術指標2022」を発表した。それによると、世界の自然科学分野の論文数で、日本の順位はこの20年で4位から10位に陥落した。論文のシェアは1位の中国が27.2%、2位の米国が24.9%であるのに対し、日本はたったの1.9%。G7(先進7カ国)メンバーの中で最下位だ。
米国の情報サービス会社クラリベイト・アナリティックス社が同年4月に公表した調査でも、科学技術分野の「質の高い科学論文の数」で日本は12位。前回の調査(2017~19年平均)では10位だったが、スペインと韓国に抜かれた。
論文は、他の研究者の論文に引用される回数(被引用数)の多いことが、質の高さを示す重要な指標になる。「引用数が上位10%に入る質の高い論文数」では、日本は3780本で12位。首位の中国は10倍以上の4万6352本だった。20年前、日本は米、英、ドイツに次いで4位だったが、10年前に6位に下がりその後も低落がとまらない。
顕著な研究開発能力の低下
新型コロナの研究でも日本は低調だ。世界で推定20万本を超える論文が発表されたとみられる。科学技術振興機構(JST)の分析では、「国・地域別の新型コロナ関連の研究論文数」のランキングで、日本は2020年に16位、21年は14位、22年は5月までの時点で12位と、上位から水をあけられている。1位は3年連続で米国、2位と3位は中国と英国で年によって入れ替わる。日本よりも上位には、ブラジルやインドがいる。日本の研究能力の低落ぶりが改めて浮き彫りになった。
論文数だけでなく質からみても、科学技術力の低下に歯止めがかからない。「ネイチャー」「サイエンス」「ランセット」といった権威ある5誌に掲載された新型コロナ関連の論文に絞ると、日本は20年に18位、21年に30位と下がった。投じられる研究費からみても日本は大差をつけられた。
特に感染症の研究者の不足は深刻だ。JSTによると、2020年度の国立感染症研究所の常勤職員は約360人。米国の疾病予防管理センター(CDC)には、全米と世界各地に医師や研究者など約1万600人の職員がいる。資金力の差も大きい。医学研究の元締めでもある米国立衛生研究所(NIH)の年間予算(2022年)は約102億ドル(約1兆4000億円)なのに対し、日本の医学研究を司る日本医療研究開発機構(AMED)は約1250億円と、ほぼ10倍の格差がある。
今回、いち早くワクチンを開発した米バイオ企業のモデルナ社は、2013年に国防総省から約27億円、16年に保健社会福祉省から約135億円の支援を受け、実用化が難しいといわれてきたmRNAワクチンの開発をつづけてきた。他方、日本でも国立研究開発法人の医薬基盤・健康・栄養研究所がmRNAワクチンの研究に手をつけてはいたが、ワクチン臨床試験の予算がカットされ、2018年に研究が中止された。日本は本気で感染症対策に取り組んでいるのだろうかと疑問に思う人は多いだろう。
日本でコロナワクチン開発が遅れているのにも、日本の科学技術の「体力」の落ち込みが大きく影を落としている。長期的なワクチン研究を支える基盤が脆弱(ぜいじゃく)になり、国の支援も得られないため開発に参加する企業も減っている。日本ワクチン産業協会によれば、現在日本では14社から新型コロナを除き35種類のワクチンが販売されているが、このうち13種類は海外から輸入されたものだ。
これまで日本のワクチン開発は「護送船団方式」をとってきた。行政が特定の産業を保護して、体力のない企業を落後させないように収益や競争力を確保する政策だ。しかし最近では、これが企業の自助努力を失わせたと批判が集まっている。日本の中小規模のワクチンメーカーを保護した結果、技術開発面で大きく後れをとり、「高用量製剤(濃縮製剤)」や鼻粘膜にワクチンをスプレーする「経鼻ワクチン」を開発することができなかったというのだ。超高齢化社会に突入して免疫力が落ちた高齢者が増えていく日本では、効果が高く接種が簡単なワクチンの需要がますます高まっていくと思われる。政府はどう対応するつもりなのだろう。
研究環境のひどさから国外脱出
一方で、大躍進しているのが中国だ。日本の地盤沈下とは対照的に中国の存在感が高まっている。豊かな経済力を背景に、研究開発費の大規模投資や研究者の大量採用を積極的に進めている。悲しいかな、この20年間で科学界における日本と中国の存在感は完全に入れ替わった。ここ数年、質の高い論文数や被引用数で米国と肩を並べ、ときには首位を奪取している。
このために、日本国内では若手研究者が海外に職を求める「頭脳流出」が起きている。私の教え子でも優秀な研究者は欧米諸国や中国、シンガポールなどを目指す者が目立つ。そのうちのひとりはこう語っていた。「高給につられて中国に転職したのだろうと日本ではいわれたが、日本の研究環境のひどさに見切りをつけて国外に脱出した」。流出組からは異口同音に「日本には自由に研究に没頭できる環境がない。予算が限られている上に雑用に追われて実験に集中できない。明治時代以来つづく研究室の封建的な在り方には息苦しさを覚える」といった声を聞く。
北京大学の博士課程で教鞭をとっていたことがあるが、日本に比べて研究者の熱気や研究費などのサポート体制でも大きく水をあけられたことを実感した。たとえば、中国における2020年の研究開発費の総額は59兆円で、米国に次ぎ世界2位だ。その一方で、日本は17.6兆円。日本の博士号取得者は2006年後以後、一貫して減少しているが、中国の取得者数は2005~20年度に2.5倍に増加している。
天然資源に恵まれない日本は、人的資源の豊富さで世界に伍(ご)してきたはずだ。日本が「衰退途上国」と揶揄(やゆ)されはじめて30年にもなるが、世界の科学技術の研究は年々大規模化していて予算も人員も増え、しかも国の枠を超えて盛んに国際的な研究協力を進めている。こうした世界の流れから日本は完全に置いてきぼりを食ってしまった。
崩れる科学立国神話
日本の「科学技術立国」の現状はお寒い限りだ。寒々しい話はワクチン製造に限らない。三菱重工は、国産初の小型ジェット旅客機「スペースジェット」(旧称MRJ)の開発を断念すると2023年2月7日に発表した。開発がはじまった15年前には、遠からず「夢の日の丸ジェット」が世界の空に羽ばたくはずだった。だが、納入予定時期は6回も延期され、当初1500億円としていた開発費は1兆円規模にまで膨らんだ挙げ句、プロジェクトは失敗に帰した。
3月7日に種子島宇宙センターから打ち上げられたロケットの「H3」1号機は、指令破壊信号が送られて空中に散った。さまざまな技術を結集した巨大システムであるロケットの打ち上げ失敗は、日本の技術力の衰退を改めて浮き彫りにした。
「デジタル技術を制するものが21世紀を制する」と声高に語られながら、日本の現状は以下の数字が物語る。スイスの「国際経営開発研究所」(IMD)が毎年発表する「世界デジタル競争力ランキング」の2022年版では、日本は前年から1つ順位を下げて、63カ国中で過去最低の29位になった。総合ランキング上位の5カ国は、デンマーク、米国、スウェーデン、シンガポール、スイス。アジアの国・地域では、韓国が8位、台湾が11位、中国が17位である。
さらに、今後の医療の中核になるとみられる「遺伝子治療」の研究開発でも、日本の存在感はないに等しい。遺伝子の異常が関係する癌(がん)や先天性の病気の治療は、遺伝子を修復する技術が切り札とされ、医学的必要性はきわめて高い。各国は研究や開発にしのぎを削り、有力な企業が続々と名乗りをあげている。このままではコロナワクチンのように、他国におんぶに抱っこになるのは確実だろう。
「コロナ3兄弟」はほぼ10年の間隔をおいて、コロナウイルスの感染爆発を起こしてきた。この10年という期間は、ウイルスがヒトに感染できるように変異するのに要する時間かもしれず、近い将来に「新・新型コロナウイルス」が出現する可能性も否定できない。ワクチンの開発には地味な基礎研究の積み重ねが必要だ。米国では国防総省が予算をつけていることからも分かるように、重要な国家の危機管理であり安全保障でもある。
現在直面するさまざまな問題点を洗い出し、根本から見直さない限り、次のパンデミック(世界的大流行)襲来で日本は再び一敗地(いっぱいち)にまみれるだろう。これこそコロナ禍から得られた最大の教訓だ。
(文中敬称略)
(4章「新型コロナが残したもの」完 )
編集部より:感染症の文明史【第1部 コロナの正体に迫る】は今回で完結し、石弘之先生は感染症の文明史【第2部 人類と微生物の格闘】の執筆に向けて準備中です。楽しみにお待ちください。
バナー写真 : リオデジャネイロの人気観光スポット「コルコバードの丘」に立つキリスト像。新型コロナのパンデミックによる閉鎖を解くため、厳重な消毒作業が行われた。2020年8月13日撮影(この写真は記事の内容に直接の関係はありません)(Photo by Andre Coelho / Getty Images)
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