“殺人球技” に全力で挑む:車いすラグビー・倉橋香衣
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車いすの格闘技
ガツン、ゴツン―車いす同士の激しい衝突音が伝わってくる。車いすを巧みに操る筋骨隆々の男性に混じって女子選手が1人、負けじと激しく動き回っている。いったい何者?―そう思わせるほど強烈な印象を受けた。
2018年夏にオーストラリアで行われた車いすラグビーの世界選手権。リオパラリンピックで日本は銅メダルを獲得したこともあり、20年東京大会の期待競技として予選からテレビ中継された。順調に予選を勝ち進んだ日本は、決勝戦で世界トップのオーストラリアと対戦。巧みなチームワークで攻め続け、残り6秒で62対61の僅差でリード。だが、ロンドン、リオと2大会連続でオーストラリアの金メダル獲得に貢献したハイポインター、クリス・ボンド選手が同点のトライを決めようとする。その瞬間、車いすを激しくぶつけて行く手を阻んだのが、体がボンド選手の半分もないような倉橋香衣(かえ)選手だった。
車いす競技で唯一コンタクトプレーが許される車いすラグビーは、「マーダーボール(殺人球技)」と呼ばれるほど激しいスポーツだ。互いの車いすをぶつけ合い、時にはその衝撃の強さで選手が宙を舞うこともある。言うなればコート上の格闘技。その世界選手権、しかも決勝戦に女性が出場していることにまず驚いた。
必死で1点を死守
世界選手権で日本が金メダルを獲得してから1年。決勝戦の記憶はまだ鮮明に残っていて、目の前の女性が闘争心むき出しで1点を死守した選手だとにわかには信じ難かった。終始にこやかで、つらい出来事を語る時も笑顔を崩さない。こんな風に明るく笑えるようになるまでには、相当な葛藤があったに違いない―そう想像していると、「もともとの顔の作りが笑い顔なんですよ」とにべもないことを言う。
世界選手権では活躍しましたねと言うと、「とんでもない」と打ち消した。「まだまだできないことはたくさんあります。ただ、あの試合では相手も疲れているので、走りきった側が勝つと信じていました。とにかく必死。試合終了のホイッスルが鳴った時、勝ち負けも分からなかった。思わずチームメイトに、 “勝ったの?負けたの?” と聞いてました」
男女混合競技の車いすラグビーは、バスケットボールと同じ広さのコートで、4人対4人で戦う。選手交代の回数に制限はない。選手は障害の重さによって、0.5ポイントから3.5ポイントまで7段階で点数がつけられる。障害が重いほどその点数が低くなる。4人で合計8.0ポイント以内に納めなければならないが、女子選手が出ると、0.5ポイントの加算が許される(最大4名で10ポイント)。比較的障害の軽い選手は、ボールをゴールに運ぶ「ハイポインター」。一方重い選手は「ローポインター」と言われ、相手の攻撃をブロックし、味方がゴールしやすいように道筋を作る。
倉橋は頸髄(けいずい)を損傷し、肩と腕の一部しか動かせない。最も重い障害の0.5ポイントが持ち点のローポインターだ。女子選手がコートに立つと0.5加算されことから、倉橋が出場すれば、日本は8.5ポイント使えることになる。だが、たとえ加算が許されても、女子選手をコートに入れるのはリスクが大きく、世界的にも女子選手が大事な試合にスタメンで出場するのはまれ。倉橋に「大きな可能性(great potential)」を感じて代表メンバーに抜擢したというケビン・オアー監督は、彼女を積極的に試合に出すことで、その可能性を存分に引き出そうとしているのだろう。倉橋はその期待に応えている。
阪神・淡路大震災の記憶
倉橋が本格的に車いすラグビーを始めたのは2015年。17年、日本代表のヘッドコーチに就任したオアー氏に見いだされ、代表入りを果たした。わずか2年で日本代表初の女子選手に選ばれたのだ。かつては体操大好き少女で、球技に親しんではいなかった。だが、幼い頃から肝は据わっていたようだ。そのタフさをオアー監督は感じ取ったのかもしれない。
兵庫県神戸市に3人姉妹の次女として生まれた跳ねっ返りのおてんば娘は、4歳の時に阪神・淡路大震災を経験。住んでいた団地は半壊した。倒れた勉強机に足を挟まれ、無事かと呼び掛ける父親に、「大丈夫だよ。でも足が挟まれてんねん」と平然と答えたそうだが、覚えていない。部屋は1階だったので、家族は窓から外に出て避難所に向かった。「途中、長田の街のあちこちが燃えていたことと、避難所で寝ている人を踏んづけたことは記憶に残っています」
「死ぬつもりなんて毛頭ない」
小学校から高校時代までは体操に打ち込むが、大学に入ってトランポリンを始めた。そして2011年4月、3年生の時に事故は起きた。埼玉県越谷市で開催されたトランポリン大会決勝前の練習で、倉橋は技に失敗した。体操選手だった頃、「バランスを崩しても頭だけは守れ」と言われ続けていたため、「頭を守らなきゃ」ととっさに思ったが、間に合わなかった。
記憶が徐々に途切れて行く。だが「ゆっくり呼吸しろ」という声が耳に届き、懸命に空気を吸おうとした。駆けつけた救急隊員が体のあちこちを触りながら、「ここ分かりますか?」と尋ねる。意識がもうろうとする中、顔以外は感覚が無いことを悟った。「会場から担架で救急車に運ばれる途中、会場にいた子供たちが “目が開いているから大丈夫”と言う声が聞こえたので、 病院に着くまで絶対に目は閉じんとこ、と思って」
頸髄損傷だった。翌日、折れた首の骨を固定する手術を受けたが、中枢神経がダメージを受け、手足のまひは避けられなかった。「ICU(集中治療室)に入っていた時、家族らは “死ぬかもしれない” と聞いていたらしい。もちろん、私自身は死ぬつもりなんて毛頭ないし、手足が動かなくなっても車いすに乗れば何とかなるだろうと思っていました」
毎日のように見舞いに来る大学の友達と退院後に遊ぶ約束をし、病院内で笑みを絶やさない倉橋に、ある看護師が声をかけた。「泣いてもいいんだよ」
起きてしまったことは仕方がない。失ったものを嘆くより、これからできることを探した方がいいと考えていた倉橋は、「なぜ、泣かなあかんの」と思ったそうだ。
できることが増えていくのが楽しい
半年後に実家がある神戸市の兵庫県立リハビリテーションセンターに移り、大学に戻るための訓練に取り組んだ。指は曲げられないため、食事の際はスプーンやフォークを持つための「自助具」を使った。自助具を使い友人に手紙も書いた。歯磨きもできた。
「障害の程度は、けがをした時から1ミリも良くなることはない。でも、できることは確実に増えてきている。それがうれしくて」
リハビリの時間以外も自主訓練に取り組み、理学療法士を驚かせることもあった。「靴下は履きやすいようにひもがついているんですけど、ひもなしで履いてみたり、私より軽い障害の人でも一人では着けられないブラジャーを、助けを借りずに着けてみたり、工夫すればいろいろできるんです」
だが大変なのは排せつ。自律神経が機能しないため、尿はぼうこうにカテーテルを入れて排せつし、便は週に2回ほど時間を決めてトイレにこもる。「トイレタイムは5時間ぐらい。今の私にとってはこの時間が本当にもったいない。ただこればかりは短縮できない」
2013年10月、大学がある埼玉県の国立障害者リハビリセンターに移った。そして、センターの入所者でつくる車いすラグビークラブの部員から誘われて、練習を見に行き、その激しさに魅了されたのがこの競技を始めるきっかけだ。15年4月には県内のクラブチーム「BLITZ」に加入した。
現在は一人暮らしで、車の運転もする。勤務先の商船三井で週2日自助具を使ってパソコン作業をこなしながら、筋力トレーニングや車いすラグビーの練習に励む日々だ。
体重増やして「がんがん」ぶつかりたい
倉橋は、“マーダーボール” を心底楽しんでいると言う。「パラスポーツの中で、吹っ飛ぶぐらい本気でぶつかり合うことが許されるスポーツは、車いすラグビーの他にはないと思います。外国人選手は体が大きい上にパワーもスピードもあるので、ブロックしてぶつかった衝撃はすごい。その振動を感じながら、素早く次のポジションに移動する。私にはそれがとても楽しい」
「パラリンピックまではあと1年。体重をもっと増やし相手をがんがんブロックしたい。もちろん目標は金メダル。そして、車いすラグビー人口をもっともっと増やしたい」。事故で体の機能を奪われても、リハビリが厳しくても、涙をはねのけて日本代表への道を切り開いた倉橋。その眩(まばゆ)いばかりの笑顔は、東京パラリンピックで大輪の花を咲かせるに違いない。
(本文中敬称略)
インタビュー撮影:花井 智子