「世間のルール」に従え!:コロナ禍が浮き彫りにした日本社会のおきて

社会

新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、世界各国は「外出禁止令」と「罰則」による都市のロックダウンを行った。日本政府はこうした厳しい措置を取らず、「外出自粛」と「休業要請」を出してこの危機を乗り切った。なぜこのようなことが可能だったのか?

「法のルール」に代わる「世間のルール」

「自粛」と「要請」という奇妙な言葉が飛び交った、新型コロナウイルス禍があぶり出したものは、日本における「世間」の同調圧力の強さであった。「世間」は「社会」や「世の中」を意味する言葉だが、実は日本独特のもので、「society」 でも「community」でも「world」でもない。歴史的に見るとヨーロッパにも「世間」にあたるものが存在したが、11〜12世紀以降の都市化とキリスト教の浸透によって「個人(individual)」が誕生して「世間」は否定され、個人の集合体である「社会(society)」が形成されていった。この「社会」を支配するのが、「法のルール」だ。しかし欧米社会のような「個人」が確立されなかった日本では、「世間」はそのまま残った。「世間」とは、日本人が集団になった時に生まれる力学・秩序と言ってもいいだろう。

日本における「世間」の歴史は古く、奈良時代末期に成立した『万葉集』にも登場する。山上憶良(660〜733頃)は「世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(この世の中をつらい、身もやせ細るようだと思うけれど、飛び立ってどこかへ行ってしまうこともできない。鳥ではないのだから)と歌っている。そして現在でも日本人は、欧米にはない細やかな「世間のルール」にがんじがらめに縛られている。

例えば東日本大震災(2011年)の際、避難所で被災者が整然と行動しているのを見て、海外メディアはこうした非常時に日本では略奪も暴動も起きないと絶賛した。欧米では災害などで警察が機能しなくなり、「法のルール」が崩壊すると騒乱に結びつきやすい。しかし日本では、「法のルール」が崩壊しても、避難所では「世間」が形成され、「世間のルール」が強力に作動したため、略奪や暴動はほとんど起こらなかった。

欧米での新型コロナへの対応は、概して言えば「外出禁止命令」と「罰則」による都市のロックダウンであった(ただし休業補償がある)。「命令」と「罰則」というハードな手段になるのは、暴動が起きることが珍しくない欧米社会では、「法のルール」に基づく強制力がないと、誰も政府の言うことを聞かないからだ。

ところが日本では、「命令」も「罰則」もロックダウンもなかった。特別措置法の「緊急事態宣言」に基づく「外出自粛」と「休業要請」という、非常に「緩い」ものであった(しかも十分な休業補償はない)。しかし厳しい法的強制力がなくとも、感染者数が減少し5月末には緊急事態宣言が解除されるという、必要十分な効果があったのは、まさに「周囲(世間)の目の圧力」が働いたからだ。「自粛」や「要請」に応じない者に対して、「KY!=空気読め」という言葉に象徴されるように、周りから「世間のルール」を守れという、強い同調圧力がかかったのだ。

猛威を振るった「自粛警察」による「処罰」

新型コロナウイルスが厄介なのは、無症状の感染者が感染を拡大させることだ。誰が感染しているか分からないから、これが人々を疑心暗鬼にし、不安と恐怖を呼び起こす。その結果「万人に対する万人の戦い」(トマス・ホッブズ)という状況になり、日本では「世間のルール」を守らない人間に対する排除やバッシングが強まった。

例えば今回のコロナ禍で猛威を振るった「自粛警察」はその最たるものだろう。自分が直接の被害を受けていなくとも、「自粛」や「要請」に応じない店などに対して、匿名で行政に通報したり、抗議や脅迫を行ったりする。なぜ、こんな人権侵害ともなりうるような行為が頻発したのか?

その理由は、「世間」の同調圧力が極めて強いため、日本人は「世間体」をいつも考えなければならず、家庭で「人さま(世間)に迷惑を掛けない人間になれ」と言われて育つからだ。これは、「人とは違う個性的な人間になれ」と言われて育つ欧米とはまるで違う。そのため、「自粛」や「要請」に逆らっている者を発見したときに、それが自分に直接危害を加えるものでなくとも、自分が「迷惑を掛けられた」と思い込む。そこに正義感も加わり、「人に迷惑を掛けるな」と非難する感情が生まれ、通報や抗議、脅迫に至る。これが正当化されるのは、人に迷惑を掛けるような「世間のルール」に反する振る舞いが、日本では悪逆非道の行為と見なされるからだ。

こうした「自粛警察」による一連の行動は、事実上の「処罰」とも言える。「法のルール」の下では、法的根拠がなければ処罰されることはない。しかし日本では、「世間のルール」に反した者は法的根拠がなくても犯罪者のように扱われ、権利も人権も無視される。つまり「世間」が制裁を加えるのだ。

ケガレの意識が生んだ感染者差別とマスク着用

新型コロナウイルスに対する不安と恐怖の拡大が、感染者やその家族に対する苛烈な差別やバッシングを招いたのは記憶に新しい。感染者の家に石を投げ込んだり、壁に落書きしたりするなどの嫌がらせが相次いだ。こうした行動の背景にも「世間」がある。「出る杭(くい)は打たれる」という日本のことわざがあるように「世間」は同質的で、そこには一種の「人間平等主義」がある。さらに「世間」にはウチとソトを厳格に分ける力が働くため、同質でない者をウチからソトへと排除しようとする。こうして他と異なる者に対する差別やバッシングが起きてしまうのだ。

それに加えて、「世間」は極めて古い歴史を持つために、「友引の日には葬式をしない」などの俗信・迷信の類いがやたらに多い。そのため、病をケガレ(汚れ)と考え、それらを「清浄」な「世間」からソトへと排除しようとする。欧米とは異なり、日本で感染者やその家族に対する差別が特異で強固なのは、この伝統的なケガレの意識が「世間」の中に根強く残っているからだ。

ところが面白いことに、このケガレの意識が功を奏した側面もある。新型コロナによる死亡率が、欧米と比較してかなり低い理由として最近よく取り上げられるのは、日本におけるマスク着用率の高さだ。医学的に証明されていないが、感染症の防止にマスクは一定の効果を発揮したと思う。

新型コロナ以前には、欧米ではマスクをする人間はほとんどいなかった。しかし日本では、スペイン風邪(1918年~)に始まり、マスク着用が花粉症対策などで徐々に普及していった。特に2000年代以降になって、「だてマスク」と称される病気とは何の関わりのないものを含め、マスクが爆発的に広まり、着用率が飛躍的に高まった。欧米とは異なり日本では、マスク着用に対する心理的抵抗はほとんどない。一体なぜなのか?

実はその根底には、「ソトは不浄=ケガレ」なので自分の身体を汚染から守る、すなわち「ケガレたソト」と「清浄なウチ」を分けるためにマスクを着用する、という日本独特の衛生観念があった。日本人がソトからウチ(家)に入るときに、靴を脱ぎ、手を洗い、うがいをするのも同じ理由からだ。この衛生観念は日本固有のものだと言ってよい。

確かに、「世間のルール」としての伝統的なケガレの意識は、欧米と比較した日本の新型コロナウイルス感染による死亡率の圧倒的低さに貢献している。だがその背後には、差別やバッシングを引き起こす「世間」の同調圧力の強さがあることを忘れてはならない。

バナー写真:新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言発令に伴い、歌舞伎町で新型コロナウイルスの感染拡大防止の行動を呼び掛ける東京都職員=4月10日、東京都新宿区(時事)

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