【酒は涙か溜息か】ライカ北紀行 —函館— 第42回
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大正から昭和の初め、東京以北最大の都市といわれた函館。
1922(大正11)年、啄木がいっとき過ごした函館に憧れてやってきた根室生まれの男がいる。
その男、高橋掬太郎は、函館日日新聞の記者となり、港町のモダンな雰囲気にあふれたカフェが連なる銀座通りに足しげく通った。
故あって廃業する馴染みの芸妓へ、掬太郎が餞別として即興で扇にすらすらと書いた詩が、『酒は涙か溜息か』であった。
酒は涙か 溜息か
心のうさの 捨てどころ
銀座通りの風情がただよい、酒飲みの哀歓がにじみでている。
1930(昭和5)年、すでに新聞社の社会・学芸部長であった掬太郎は、この詩を当時の新進作曲家、古賀政男を指名して日本コロムビアに送り、藤山一郎が歌って空前の大ヒットとなった。
上京し作詞一本の生活に入って、69歳で世を去るまでにおよそ3000の詩を詠んだ。『啼くな小鳩よ』『並木の雨』『ここに幸あり』などの名作がある。
この詩のモデル・千成はカフェのマダムとなり、店は大繁盛したが、函館名物の大火により焼けだされたという。
銀座通りにちかく函館山を望むところに歌碑がある。掬太郎が自ら揮毫した『酒は涙か溜息か』が彫られており、口ずさみたくなる。この碑を建てた有志の名前がずらりと碑面の裏にあった。そこになんと親父、吉一の名を見つけてびっくり。
銀座通りのそばで育ち、若いころは大酒飲みであった故に、いの一番に金をだしたのであろう。
●道案内
高橋掬太郎歌碑 市電「宝来町」下車、徒歩2分(地図へ)