【六代目の決断】ライカ北紀行 —函館— 第6回
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ビアホールだと? なんだそれ! 明治20年代に函館初の営業倉庫を始めた、100年あまり時を刻んだ老舗が水商売を始めるのか。とんでもない……と役員から声があがった。が、金森商船・初代渡辺熊四郎が、すでにビアホールを開店した由来があると、六代目・渡辺恒三郎は力説してこの場を乗り切った。青函トンネルが開通する3年前のことであった。
最終的な決断には経営上の大きな壁があった。北国の寒い冬に果たしてビアホールに客が入るか。そこは、夏場に1年分を稼ぎ帳尻をあわせようと腹をきめた。
今では忘れ去られているが、ベイエリアの再開発に大きな役割を担った建築家がいる。最高裁判所の設計で世に出た岡田新一。函館山展望台を手始めに、港沿いの倉庫群再開発を先導した。
かつての開港場の香りをのこす西部地区を歩きまわり、この街に愛着と可能性を感じていた岡田は、古建築の取り壊し反対をさけぶ「函館の歴史的風土を守る会」に金森倉庫群の再生を直談判。さらに、取り壊し寸前であった隣接するレンガ倉庫の再開発を、その持主である日本郵船の社長で日経連会長でもあった古い友人・根本二郎にせまり、この再開発も担当した。青函トンネルが開通した昭和63(1988)年、函館ビヤホールを含む複合商業施設・金森赤レンガ倉庫とBAYはこだての誕生である。
世の移り変わりにつれ金森倉庫の荷も、北洋漁業の物資・スルメ・コンブ・米・輸入小麦などが減少。生活雑貨や一般の荷預かりが増えたものの、空き倉庫の割合が大きくなっていった。
そのような時にビール好き六代目の大決断。本業の倉庫業のみであったら、古い赤レンガの維持にも苦労し一部更地になっていたかもしれない。歴史的遺産を生かした業態転換のモデルだ。七代目・渡辺兼一も観光需要の変化に対応し拡大をかさね、つい最近、若い八代目に当主の座をゆずった。
●道案内
金森赤レンガ倉庫・BAYはこだて 市電・十字街下車 徒歩7分(地図)