【書評】「冷戦」とは、何であったのか—(前編):ジョン・ル・カレ著『寒い国から帰ってきたスパイ』
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「冷戦って何ですか?」「え!?」
最近、大学生と戦後の国際政治について話をしていて愕然とした。
若い世代は冷戦を知らないのか。
いまや西暦2000年生まれが入学してくる時代である。
彼らが知っているのは、生まれながらにしてロシアであって、ソ連ではない。
高校の授業は戦後史をろくすっぽ教えていないので、イデオロギーによって分断された世界など、想像のおよばぬところであるのだろう。
そういう若い人にも、是非、読んでもらいたいのが本作だ。
「冷戦」とは、何であったのか。
本作は、そうした問いかけの核心をついている。1963年末に発売され、たちまち世界中でベストセラーになったが、冷戦期を描いたスパイ小説のなかでも最高傑作といっていい。
そして、これから先も、長く読み継がれていく名作である。なぜなら、いくら世の中が変わろうとも、この物語には普遍的なものがあるからだ。
それがいったい何なのか。その答えは、本作を読み終えたあとに、おのずと見つかるはずである。
ヘッドライトに照らされたウサギ
それでは、いざ、冷戦の世界へ。
物語の冒頭、ベルリンで英国情報部が仕立てたスパイが東ドイツの情報機関に追われ、西側へ脱出をはかるこの場面。
「ベルリンの壁」の在り様を、これほどリアルに活写した作品はないだろう。この、緊迫感に満ち溢れた書き出しによって、読者は東西が鋭く対立する世界へ、一気に引き込まれていくはずだ。
要約だが、是非、紹介したい。
英国情報部員のアレック・リーマスは、「ベルリンの壁」の西側の検問所で待っていた。
窓から双眼鏡で、東側の検問所を注視している。
あたりはすっかり暗くなっていた。
東側から黒いオペルが通行しようとしていた。
搭乗者は女一人しかいない。東ドイツの人民警察は、書類と車のトランクを改めたのち通行を許した。
車は国境線を越えたが、目当ての男カルル・リーメックは乗っていなかった。彼は、東ドイツ社会主義統一党最高会議のメンバーで、リーマス配下の有力なスパイだった。
リーマスは女に尋ねた。
「かれ、どこにいる?」
「逮捕にきたので逃げだしたわ。自転車で」
カルルの仲間はみんな摘発されてしまった。リーマスの諜報網は壊滅したのだ。
間一髪、難を逃れたカルルは、当初の計画を変更し、自転車でくるという。
知りあいの警官から必要書類を入手したというのだが——。
検問所を挟んでにらみあう東西の武装警察。越境してくる男を助けるため、西ドイツの警官が援護射撃をすることはできない。人民警察が先に発砲したときのみ、許される。ここでは、常に戦争を誘発する危険性をはらんでいる。
不審者と見抜かれることなく、無事、通過してくるのを祈るしかない。
やがてカルルは、自転車を引いて検問所にやってきた。
書類審査を終え、所持金などの申告で税関事務所を通り、出国が認められて赤と白のポール(遮断棒)がゆっくり上がっていく。
ポールを潜り抜けると、カルルは猛烈な勢いでペダルを踏んだ。そこへ。
「まったく思いがけずに、サーチライトがきらめいた。ギラギラする白熱の光が、カルルを捕えた。光を浴びたかれの姿は、車のヘッドライトに照らしだされたウサギを思わせた」
サイレンが鳴り、射撃が続き、カルルの脱出はかなわなかった。
とっくに密告されていたのだ。
その一週間後、女も西側で殺されていた。
東ドイツ情報部の副長官
本作の主人公がアレック・リーマスだ。
彼は、現場の諜報活動に向いていたし、本人も、帰国してデスクワークにつく気などさらさらない。
彼はベルリン駐在を長く続け、諜報網を築きあげ成果をあげてきた。
しかしそこに、強敵が現れた。
ハンス・ディーター・ムント。ライプチヒ生まれの42歳。
彼が、物語のなかで、敵側の主要な人物となる。
若いころのムントは、東ドイツ鉄鋼調査団の一員というふれこみで、ロンドンで諜報任務についていた。帰国後、1959年以降に頭角を現し、41歳の若さでライプチヒに所在する東ドイツ情報部(アプタイルンク)の副長官まで上り詰めていた。
彼の配下で、重要な役柄を演じるのが、対敵諜報課長のフィードラーである。
この、ムントとフィードラーのコンビによって、リーマスが築いた諜報網は根こそぎ摘発され、壊滅してしまうのだ。
ここで冒頭シーンに話がつながる。
リーマスは、ベルリンを去り、帰国。ケンブリッジ・サーカスにある情報部に呼び出される。このとき、彼は齢50になっていた。
現場仕事が長いリーマスに、管理官(コントロール)は言った。
「ときには、寒いところから帰ってくる必要がある」
リーマスは、ベルリンでの失態の責任を問われ、クビになるのを覚悟した。
しかし、続けて管理官は予想外のことを告げる。
「無理を承知で、いますこし、寒い場所からはなれずにいてほしい」
ムントは、ロンドンでスパイ活動中、保身のために二人の同僚を殺している。
目的のためなら手段を選ばず、殺人も厭わない。
彼は、ヒトラー・ユーゲントの出身で、コミュニストとはいうものの、
「理論家、知的分子といったところはかけらもない。もっぱら、冷戦用の戦闘員」
というのが、英国情報部の見立て。手強い相手をなんとか排除したい。どんな手を使ってでも。
管理官は、リーマスに言った。
「われわれはなんとしてでも、ムントをとり除こうと考えておる」
そのための策があるという。
リーマスは躊躇なく答えた。
「ムントをやっつけるためでしたら、よろこんでやらせてもらいます」
このあたりのくだりで、同じ情報部のジョージ・スマイリーやピーター・ギラムも、ロンドン時代のムントに関わっていたことが管理官からほのめかされる。
彼らは、リーマスとは古くからの仲間だった。
スマイリーとギラムの名前は、物語の後半で重要なキーワードになる。
本作の著者ジョン・ル・カレは、10年後にこの二人を重要な登場人物としてスパイ小説の傑作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974年)を世に送り出している。本作でのスマイリーの初出は、
「あの男、十七世紀のドイツ文化研究者で、チェルシーに住んでいる」
と、管理官がさりげなく話しているが、いずれル・カレ作品を読まれるむきには、覚えておくとよいだろう。
リーマスは、管理官から新たな任務を与えられた。宿敵ムントを倒すために。
ここから作戦は、静かに動き出す——。
情報部をクビになり
ところが、これからというところで読者は物語があらぬ方向に迷走しはじめたと感じることだろう。
リーマスは公金を使い込んだ疑いで情報部をクビになり、酒に溺れ、自堕落な生活を送っているのだ。
彼は、臨時雇いの仕事をしても長続きせず、その次に職業安定所で紹介されたのが、図書館で蔵書を整理するという単調な仕事だった。勤務態度は不真面目。
ここで出会ったのが同僚女性のリズ・ゴールド。年齢は22か23。ユダヤ系のようだ。
彼女はリーマスに好意を寄せ、ほどなくして二人は男女の関係になる。
リズは、慎ましい生活を送り、コミュニスト(共産主義者)として地区の集会に参加している。それを彼に打ち明けたが、リーマスはそんなことはどうでもよいといった態度だった。
彼女は、リーマスの過去を問い質したりはしなかった。純粋で献身的な女性で、リーマスが病に倒れ、安アパートで高熱にうなされていたときには、6日の間、そばにいて看病に努めた。
しかし、病からようやく癒えたとき、リーマスはリズに別れを告げる。
リーマスとならび、リズはたいへん重要な役回りを演じることになる。彼女もまた、のちに英国情報部が作戦を遂行するためのコマとして利用されるのだ。このことは記憶しておいてほしい。
その翌日のこと、自暴自棄になったリーマスは、食料品屋の店主と支払いをめぐって口論になり、相手を殴り大怪我を負わせてしまう。
彼は逮捕され刑務所に送られた。
ムントを陥れる作戦はどうなってしまうのか?
ル・カレ作品をはじめて読まれる方へ。
あらかじめお断りしておくと、ル・カレの描く物語世界はまるで迷路のように入り組んでいる。しかも複雑にいくつもの伏線がはられ、読み馴れないうちは難解に思われるかもしれない。物語の先行きは、まったく読めない。
しかしこれは、彼の全作品に当てはまることだが、読み進むうちに彼の独特な文体は味わい深いものとなり、いつのまにか読者は彼の術中にはまってしまうのだ。
(後編に続く)