日本人の生命観(上)
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日本人と肉食
食肉の消費量は所得水準に比例し、高所得国ほど多く、低所得国ほど少ない。例外は日本である。世界の主要国のひとり当たりの食肉消費量は、日本は世界第12位。米国の4分の1にすぎない。韓国、中国、マレーシアなどよりも少ない。その代わりに魚介類がとくに多いわけでもない。
16世紀半ばに日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルは「野菜と麦飯を常食とし、ときどき魚や果物を食べるだけなのに、日本人は驚くほど達者だ」とイエズス会本部へ報告している。宮沢賢治も「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ…… 」と「 雨ニモマケズ」の詩に書いた。
日本人の男女を併せた平均寿命も、健康寿命(2015年)は世界でトップ。だが、江戸時代は45歳程度だった。平均寿命が50歳を超えたのは戦後の1947年になってからで、それほど昔から日本が長寿国だったわけではない。
日本の長寿の秘訣は国際的にも関心が高い。食事に限っていえば、伝統的な米と野菜と魚介類を中心とした食事に、洋食のパンと肉食と乳製品が加わるといった絶妙なバランスが健康に良いという見方が強い。「日本の食文化」は健康食という評価が高まって、ユネスコの無形文化遺産にも登録され、いまや国外に約8万9000店の日本食レストランがある。
戦後の食肉消費の増加は、寿命と身長を大きく伸ばしてきた。20歳男子の身長は1950年以後12センチ近くも高くなった。肉食と欧米流の生活様式の普及が理由とされる。だが、この20年ほどの間にひとり当たりの肉の消費量は横ばいがつづき、魚介類については50年代に逆戻りしてしまった。動物の殺生を禁じ肉食を忌避してきた日本人の心の奥底で、健康志向とともに肉食をほどほどに押さえる心理が働いているとしか思えない。
黒船と最古の自然保護条約
1830年代から50年代にかけて、米国の捕鯨は黄金時代を迎えた。経済の拡大に伴って灯油、ロウソク、潤滑油など鯨油の需要が高まり、捕鯨は一大産業に育ってきた。しかし、捕鯨の歴史の長い大西洋では資源の枯渇が著しく、代わって太平洋が最大の漁場になった。
46年には292隻の米国の捕鯨船が太平洋で活動していた。53年には鯨油の生産量から逆算して、1年間に3000頭以上のクジラが捕られたと推定される。日本近海から北太平洋にかけて欧米の捕鯨船が集中した。
米国の作家H・メルビルが51年に発表した『白鯨』は、主人公のエイハブ船長が捕鯨船と巨大クジラとの戦いで、日本近海で片足を失ったという設定だ。難破した船乗りが米国の捕鯨船に救助されたのは、ジョン・万次郎をはじめとして枚挙に遑(いとま)がない。
捕鯨船の出没とともに、遭難や住民とのトラブルも増えていった。40〜50年代には、英米の捕鯨船が日本の港で薪(まき)や水や食料を要求したり、上陸して暴れたりするという事件が相次いだ。とくに、鯨油を採るためには脂身を釜でゆでる必要があり、大量の薪を必要とした。
幕府は「異国船打払令」を発令して鎖国政策を強化した。その一環として幕府は漂着した捕鯨船員を拘束したことから、日本が難破した船員を虐待しているとして、米国内では日本に抗議する世論が高まった。
鳥獣保護の条約
米国内では、遭難した捕鯨船員の保護や待遇改善に関心が高まり、日本に開国を迫るために送り出されたのが海軍のペリー提督だった。捕鯨業界も全面的に支援した。 提督は4隻の黒船を率いて1853年7月に神奈川県浦賀に来航した。
大統領の親書を手渡して徳川幕府に対し開国を要求。その翌年再来日して、交渉の末に3月31日に両国間で「日米和親条約」(神奈川条約)が調印され、2カ月後には細則を定めた「日米和親条約付録」(下田追加条約)が締結された。
この条約によって、米国船の日本における薪水・食料などの買い入れを認め、下田・箱館(函館)の開港が決定して鎖国体制は終焉(しゅうえん)を迎えた。13条からなる「日米和親条約付録」は、上陸した米国人の行動範囲、休息所、墓地などを定めたものだ。
中でも注目すべきは、第10条だ。日本側が要求して盛り込まれたものだ。「鳥獣遊猟は都而(すべて)日本に於て禁ずるところなれば亜墨利加人(アメリカ人)も亦(また)此制度に伏すべし」という条項である。つまり、「鳥獣の狩猟は日本ではすべて禁止されているので、米国人もこの制度を守るべき」という意味だ。
国際的に鳥類保護が話し合われたのは95年のパリ会議が最初とされ、これを機に鳥類保護の条約や組織が生まれる。日米和親条約付録は世界最古の自然保護条約と思われる。
野蛮な米国人
この条項にはこんな背景があった。ペリーらは調印の約1カ月前に、開港地の候補になった箱館港を検分するために、黒船を率いて寄港した。そのときの模様が『亜国来使記』(函館図書館蔵)に詳しく記されている。筆者は松前藩士の石塚官蔵。提督に随行した写真師が彼を撮影した銀板写真が、日本最古の写真として残されて重要文化財に指定されている。
江戸時代の日本は無益な殺傷をしないという倫理観から、野鳥や動物たちは人を恐れなかった。 しかし黒船の船員は、近づいてマストや甲板に止まった鳥を、面白がって鉄砲で撃ったらしい。『亜国来使記』には苦々しげにこう書かれている。
「亀田浜、七重浜、有川辺へ異人ども船橋にて上陸いたし、引網、ならびに小銃にて鳥類殺生などをいたし、夕七つ時(午後4時)前、残らず元船へまかり帰り候」。それを見た地元民は「米国人はなんて野蛮な人間だ」とあきれた。
一方、提督の著書『ペリー提督日本遠征期』(木原悦子訳、小学館) には、このときの状況を「ガンやカモなどさまざまな猟鳥をはじめ、数多くの鳥がみられたが、わが艦隊の狩猟家たちはほんのわずかしか仕留められなかった」と触れている。
幕末から明治にかけて日本を訪れた欧米人は、野生勣物の豊かさと日本人の動物に対するやさしい態度に感銘を受けた。たとえば、1873年に北海道開拓使として招かれた米国人獣医師エドウィン・ダン。彼がはじめて東京の街を歩いたときの感想(要約)である。「草むらからキジが顔をだし、英国大使館前の皇居の濠にはガンやカモなど水鳥が真黒になるほどいる。自宅の食堂のテーブルの上にキツネが座って皿の中身を食べていた」
当時世界でも有数の大都市だった東京で、野生動物が人と共存していることに感嘆している。彼は日本の畜産の近代化に大きく貢献した人物で、最後に駐日米国公使を務めた。セイヨウタンポポは、彼が持参しきた牧草のタネに混じって日本に帰化したともいわれる。
生類憐みの令の実像
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は、1687年にあらゆる動物の殺生と肉食を禁止する「生類憐みの令」を制定した。同令は1つの成文法ではなく、135回も出されたお触れの総称だ。守られなかったために繰り返し出されたらしい。「生類」の対象は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫にまで及んだ。動物別のお触れの回数は、鳥類が40回でもっとも多く、次いで犬猫の33回と馬の17回。
時代劇では、何十万人という庶民が捕まった「天下の悪法」として描かれる。しかし、徳川家の子孫の徳川恒孝は、『江戸の遺伝子』(PHP研究所)で「このお触れが執行された24年間で処罰されたものは69人、うち死罪は13人にすぎない」とご先祖を擁護する。
実際には動物の保護以外に、「孤児、老人、病人、行き倒れの保護」などの弱者保護も強調した倫理規定の性格が強かった。「行き倒れの旅人の身ぐるみをはいだ旅籠は死刑」「捨て子を川に流したら死刑」といったお触れもある。
捨て子については、「発見すればすぐさま届け出をせず、みずから養うか、のぞむ者がいればその養子とせよ」と定めている。捨て子を予防するために町ごとに子どもの人別帳(戸籍)をつくるように命じた。行き倒れは貧民救済施設を設けて収容した。
綱吉が「犬公方」と陰口をたたかれたように、捨て犬禁止など犬に関するお触れが目立つ。当時は野犬が増えて人を襲う事件が多発していたからだ。それを防ぐために「犬毛付書上帳(いぬけつけかきあげちょう)」という犬の登録制度をつくることを命じた。英国で動物愛護法が制定されたのは1911年のことだから、世界最古の動物保護に関する法制度であろう。
江戸の大久保、四谷、中野に犬を保護する収容施設もつくった。なかでも中野の「御囲御用屋敷(おかこいごようやしき)」は100ヘクタール(東京ドーム約20個分)もある広大な施設だった。最盛時には8万頭を超える犬が収容された。その跡地にあたる中野区役所わきには、5体の犬の銅像が置かれている。
徳川綱吉をめぐる近年の評価は、暗君から名君へと一変している。日本史の教科書では、「綱吉政権による慈愛の政治」とまで評価される。綱吉に2回謁見したドイツ人医師E・ケンペルは『江戸参府旅行日記』 (東洋文庫)のなかで「非常に英邁(えいまい)な君主であるという印象を受けた」と評価している。
掟やぶり
岡山市教育委員会の発掘調査で、岡山城二の丸のごみ捨て場跡から、江戸時代の多数の動物骨が見つかった。富岡直人・岡山理科大教授の研究で、骨はイノシシ・ブタ・ウシ・ノウサギ・タヌキ・イヌ・オオカミ・アナグマなどだった。
多くの骨に調理痕と見られる刃物傷があったことから、食べられたことは間違いない。二の丸には家老クラスの屋敷があったことを考えると、上級武士は盛んに肉食をしていたことがうかがえる。明石城の武家屋敷跡でも同様の発見があった。どうやら当時の肉食禁止には、建前と本音があったようだ。
バナー写真=1854年3月8日、ペリー提督が横浜に上陸。その当時の様子を描いたウィルヘルム・ハイネによる大判の石版画。ペリーの著作には、当時日本には野鳥がたくさんいたことが記されている(アフロ)