吉田松陰を生み出した「危機の1世紀」
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壊れるべき世界
吉田松陰の死後、その門下生たちの政治行動は、頻繁に過激な形をとった。暗殺、破壊行為、恐喝、国益より政局を優先したアジェンダ、非理性的な排外主義の煽動。これらのスタイルは以後、日本政治の悪癖として残っていった。その原因を松陰の思想に求める分析が多い。明治維新の直接的な影響下から遠ざかった第二次世界大戦後は、特にその批判が強い。それは確かにそうなのだが、物事には必ず背景がある。その背景から松陰の立ち位置を見て行きたい。
歴史を振り返るとき日本人自身による分析は、どうしても「身内」の評価になってしまう。これは冷静な第3者の眼で見る必要がある。1862年に来日し、幕末、維新、そして明治初期の政治変動の表裏を間近に見続けたイギリスの外交官・通訳官、アーネスト・サトウの視点に立ってみよう。サトウは、その回顧録で次のように解説している。
「(徳川政権成立から)数代を経ると、家康の時代に戦功のあった武将や政治家たちの子孫は愚鈍な傀儡に成り下がったが、また一方、世襲制度の弊害は、評定官たる家老の子孫にも同様の影響をおよぼした。こうして、あらゆる大名の家中に、スコットランド山地の氏族のそれに類するような状態が生じた。そこでは、決定的な権力が、貧しくて、しかも貴族的な寡頭執政者の感情と意見によって左右されたのである」。
「このようにして、大大名の行使する権力は、単に名目上のものに過ぎなくなり、その実は家臣の中でも比較的に活動的で才知に富んだ者(その大部分は身分も地位もない侍)が大名や家老に代わって権力を行使するようになったとき、驚くべき1868年の革命が出現したのである。藩内を事実上支配し、藩主の政策を決定したり、公の場合に藩主の発言すべき言葉を進言した者は、これらの人々であった」。
「何度繰り返していっても、とにかく大名なるものは取るに足らない存在であった。彼らには、近代型の立憲君主ほどの権力さえもなく、教育の仕方が誤っていたために、知能の程度は常に水準をはるかに下回っていた。このような奇妙な政治体制がとにかく続いたのは、ひとえに日本が諸外国から孤立していたためであった。ヨーロッパの新思想の風がこの骨格に吹き当たったとき、それは石棺から取り出されたエジプトのミイラのように粉々にこわれてしまったのである」(アーネスト・サトウ著、坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』)。
いかがだろうか皆様。日本人が描いた江戸時代や幕末の風景とはかなりトーンが違っている。現在のどこかの国とまるでそっくりである。ここでいう「大名」は「徳川幕藩体制」とも「支配階層としての武士層」と言い換えてもよい。これこそが松陰が憂い、そして、その松陰を押しつぶした日本のありのままの姿であった。
ちなみにサトウのこの著作は1921年にロンドンで刊行されたが、第二次世界大戦に敗戦するまで、日本国内では禁書扱いだった。38年文部省維新資料編纂事務局が非売品図書として抄訳を始めて刊行。少数を一部研究者に配布したが、「公表をはばかる箇所は、全部削除」となっていたという。
武士の世の舞台裏
もう少し詳しく見てみよう。日本型の封建体制である武家政権は、12世紀末以来、変遷を経ながら続いてきた実に古臭いシステムであった。その最終形態である当時の徳川幕藩体制は、いうまでもなく将軍を頂点とした大名諸侯のヒエラルキーであるが、単純なピラミッドではなかった。領主としての規模でいえば、将軍位継承権を持つ親藩、将軍家の遠い親戚の御家門、かつての独立勢力の外様が大きかったが、将軍による中央政府である幕府で実権のある地位につき、実際の国家運営に携わることができるのは、幕府創建以前からの徳川家の家臣で比較的小領主である譜代大名と将軍直属の官僚群である旗本だけであった。親藩とはいえ国政からは遠ざけられていた。
大名は所領で地方政府を運営した。いわゆる藩である。そこでは大名の家臣団が運営に当たった。ここまでが「武士」とよばれる階級に属する。彼らはすべて世襲であることを義務つけられており、ゆえに階級を形成していた。徳川期の末期、諸侯の数は大小合わせて約300だった。極めて分権的な政治的伝統が根付いていたのである。しかし、各大名の所領支配権は将軍もしくは幕府が自由にでき、取り潰し、減封、転地が頻繁に行われた。つまり、大名や武士は日本の主権者であったかというと必ずしもそうとは言えなかったのである。
古代以来の帝王であった天皇を頂点とした京都朝廷は、13世紀には武家政権との抗争に敗北して政治の主導権を失い、17世紀初頭に徳川政権が成立すると決定的に有名無実化し、事実上、幕府の被扶養者といった存在になっていた。
武士は経済の主役ではなかった
武士以外の階級は庶民に位置づけられたが、経済や社会の運営は事実上、この階層が実権を握っていた。特にこの段階では土地は領主のものではなく庶民階級の所有物だった。農民はヨーロッパに見られた農奴ではなく、農地の所有者であり、地代としての小作料も地主である農民に支払われた。
これは都市の地代でも同じである。300諸侯が城下町という形で各地に都市を建設したことで資本の蓄積が促され、海路と街道が整備されたことにより内国貿易が活発になり、徳川期を通じて商業、金融は大発展を遂げた。これらの農業資本、商業資本はすべて庶民階級の所有するものだったのである。都市も農村も、彼らの意向を無視して運営することは難しく、かなり自治や行政の委託が進んでいたのである。
一方、幕府や大名はその収入を、主に現物納付による農地固定資産税ともいえる年貢に依存しており、家臣団への給与も米の量によって規定され世襲で固定されていた。当然、貨幣経済が急拡大する中、恒常的な貨幣による収入手段が乏しい幕府や大名権力、武士階級は、国内経済の中で不安定な存在となっていった。
公的な決済通貨でもある米の生産・換金への極端な傾斜が行われたが、米作は気候変動に極めて弱く、頻繁に飢饉や経済危機を引き起こす原因となった。かといって財政緊縮政策をとっても、貨幣経済の中の敗者となるだけだった。武士階級は、庶民階級である金融業者に依存しなければ生きていけない存在になった。
外圧はとっくの昔に始まっていた
その上、サトウの指摘のように世襲制度は決定的に武士階級の弱体化を招いた。このように権力や権限、所有権などを分散させ、世襲させて統治する体制は、安定を図るうえでは有効だが、変化に対応するのは難しくなる。幕府は1636年に鎖国を行い、ごくわずかの例外を除いて海外との交流を厳禁した。外からの変化を国策として封じたことは徳川体制の長命化につながったが、一方で支配階級としての武士は堕落していったのである。
18世紀の終盤に差し掛かると、徳川幕藩体制の統治能力の低下は覆い隠せなくなってきた。まず1782年から86年にかけて起きた「天明の大飢饉」である。信州と上州(現在の長野県と群馬県)の境にある浅間山の噴火をきっかけに東日本を覆った。後の研究によれば、死者は90万人以上に上ったという。東北諸藩は荒廃し、江戸や大坂などの大都市では被災者の流入や物価の急騰で治安が悪化し暴動が頻発した。
また、1760年代にはロシアが蝦夷地(北海道)周辺に出没し始め、78年、81年、1804年に、国交を求めるツァーの国書を持った外交使節が来日した。幕府はいずれも拒否したが、最後には武力衝突を引き起こすまでになった。19世紀に入ってからは、ロシア以外の国も日本近海に姿を現し開国を迫って、たびたび衝突を起こした。1840年から42年に起きたアヘン戦争の実態は日本にも伝わった。これらの対外的緊張は、日本国内の危機感をいやがおうにも高め、国家意識を芽生えさせる結果になった。
200年ぶりの内乱、「大塩平八郎の乱」
そして1833年から39年にかけて、「天保の大飢饉」が発生し、各地で餓死者を生み、暴動が起きた。特に37年、実に200年ぶりの内乱、大塩平八郎の乱が大阪で起こった。これは幕府の元地方行政官が改革を求めて武力蜂起したもので、事態の深刻さはここに極まった。だが、それでも日本は変わらなかったのである。
この内外に危機が迫った半世紀の間、もちろん幕府は何度か「改革」を試みた。しかし、それは対症療法であって、政治や社会の体制を根元から作り直すものではなく、見るべき成果を挙げることが出来なかった。幕府への失望感は、文字通り朝野に満ち満ちた。ペリー艦隊の来航にしても、幕府は、当時、ヨーロッパ国で唯一外交関係にあったオランダから事前に警告を受けていたのである。それでも何の準備も出来なかったし、来航後も積極的な対応が出来たとは言いがたかった。
日本では今に至っても、突然の黒船来航によって幸福な平和を破られ、帝国主義的侵略の危機にさらされたので明治維新に至った、いわば被害者であったと信じられているようだが真っ赤な嘘である。対外的緊張ならば4分の3世紀前から高まり続けていたし、あまりに長期にわたり対応できなかったので、ついに砲艦外交を仕掛けられるに至ったのである。国内問題と同じく、危機感が高まっても自力で何一つ変革しえないほど腐り果てた国だったのだ。
終わりの始まり——幕府の衰退と天皇制の再評価
この危機の1世紀が始まってから、日本国内には見るべき変化が2つ起きた。一つは、天皇制の再評価である。幕府の統治能力に疑念が持たれ、幕府権力は天皇から委任されたものであるとする政治解釈が一般的になり、天皇もまたそれを意識した発言を繰り返した。対外的な緊張から国家意識が高まったこともこの風潮を後押しした。その影響もあって、天皇が元首であった古代の研究が盛んになった。これらの研究の担い手は上層の庶民階級や下級武士、さらには水戸藩のように親藩ながら国政に関与できない大名など、主に徳川体制のアウトサイダーたちであった。
もう一つは、諸藩の個別の改革である。諸藩も経済の立て直しを迫られる状況にあったが、こちらは、規模が小さいこともあり、成功する例がいくつかあった。特に西国の諸藩でそれが目立った。気候の条件が恵まれていることから、農業生産、特に商品作物の増産が順調に行えた。また、主要な内国航路の沿岸地域が多く、専売化した物産を当時の中央市場であった大阪に「輸出」して藩の財政を潤わす事が出来た。つまりこれらの藩は商品経済に本格参入できたのであった。その結果、幕末期になって幕府に対抗出来る経済力を身につけた藩がいくつも現れたのである。成功した藩には共通点があった。いずれも人材登用に成功したことだった。世襲の権力構造という骨格はそのままだったが、実力主義は長期の危機のなかでわずかずつではあるが否応なく日本社会に浸透していった。
吉田松陰の長州藩もまた、経済の立て直しに成功した藩だった。米、塩、蝋(ろう)という主力商品の増産に成功し、藩が専売化した。また瀬戸内海沿岸の港湾都市を中心に政治意識の高い商業ブルジョアジー層が形成されていた。また農村も天保期には大規模な一揆を繰り返し、藩はさまざまな妥協を強いられるまでになっていた。
また長州藩は、大阪と蝦夷地、東北を日本海ルートでつなぐ北前航路のチョークポイントに位置していたのである。経済発展に優位な立地であったが、優位なのはそれだけではなかった。特に瀬戸内海の東シナ海側の出入り口である関門海峡に面していたことは、のちのち長州藩だけでなく日本の運命をも左右することになるのだった。
幕末政治闘争はペリー来航以前に始まっていた
慢性的な危機の中で、幕府と諸藩の実力のバランスが崩れると当然、国政改革の要求が高まっていった。そのきっかけとなったのが、14代将軍継承問題であった。病弱な13代家定の後継を、幕府閣僚の保守派は、将軍に一番血筋の近い紀州徳川家から迎えようとした。しかし、親藩の水戸藩、尾張藩、御家門の越前藩、11代将軍と13代将軍の正室を出し準親藩と言ってよい薩摩藩、さらにこれらと協力関係にあった土佐藩、宇和島藩などは、水戸徳川家出身の一橋慶喜を推して激しく運動した。
これまで親藩といえども国政への参加は許されていなかった中で、一橋派の行動は雄藩の国政参加という体制変革を指向するものだった。幕末に向けた政治闘争は、実はペリー艦隊の来航前から始まっていた。保守派は譜代大名の筆頭、井伊直弼が大老になると巻き返しを図り、将軍後継を紀州藩から迎えた。またこれまでの慣例通り、幕閣だけで開国の条約締結を決めたことに一橋派が抗議したことを理由に彼らをパージ、次いで、全国の反対派の大粛清を始めた。松陰の命を奪うことになる「安政の大獄」である。大獄は松陰の死の翌年、1860年に井伊が暗殺されるまで続いた。
しかし長州藩は、この改革派諸藩のサークルからも埒外であった。一橋派は権力から遠ざけられていたものの将軍家周辺の有力者の運動であり、体制内改革の趣があった。長州藩は正真正銘の外様であった。幕府の中の改革が行われても、長州藩が幕府権力の外側なのは変わらない。ほかの外様藩、下級武士、上層の庶民階級、そして京都朝廷など、実力や政治意識を持ちつつも国政の埒外におかれた勢力も同じであった。そのことが、松陰の思想が長州藩に浸透し、松陰の門下生たちが活躍の場を得る背景になったと考えられる。
一橋派諸藩の政治指導者やイデオローグの考えは、内外の危機に対処するために、国政に有力大名が参加して事実上の統一国家となり、近代化によって富国強兵をはかる。しかし、幕府の全面否定ではなく、まして諸藩による改革である以上、諸侯もまた温存されるということに集約される。
時代精神としての松陰
松陰は、全く違った。彼は天皇主義者だった。これは「一君万民」という形で言い表され、最終的には幕府も武家政権の体制自体も否定することにつながるものだった。また、松下村塾の生徒を身分の分け隔てなく受け入れたこと、被差別民ながら仇討ちを果たした女性を賞賛するなど、徹底した平等主義者だった。さらに富国強兵は同じであったが、欧米帝国主義列強に対抗するため、日本も海外へ拡張すべきと主張した。
ヨーロッパに範をとった近代的な色彩を持った社会改革や国民参加の政治改革、平等主義、民族自立、国家主義、帝国主義競争への参加、のちのち近代日本を特徴づける思潮の萌芽を松陰に見て取ることが出来る。当時の日本の武士階級の立場からみると特異で反逆的とさえいえるが、長州藩と松陰の立ち位置を考えると、結局、たどり着くべき世界観であった。
ちなみに松陰は1830年、天保の大混乱期の直前に生まれた。兵学師範の家を継ぐため、萩でスパルタ式の古典教育を受けたが、彼の知見が飛躍的に広がるのは21歳から藩外遊学を始めてからである。九州、東北の各地を巡り見聞を広め、また江戸で佐久間象山をはじめとする当時の一流の知識人に学んだ。この時期に日本が内外に抱える危機を知り、深く考察することになった。また天保期の内乱首謀者、大塩平八郎と同じく、行動を重視する陽明学を基本的な教養としていたことも、その活動のスタイルを作り上げていった。
しかし、彼の言論や下田密航未遂事件のような行動は、まだ押し潰されるだけの状況にあった。安政の大獄の下で、井伊直弼が主導する幕府が日米修好通商条約を締結した際も、阻止行動を訴えたが、門下生を含め、周囲は彼の期待通りに動くと言うには、ほど遠かった。以下は、死の半年前、萩の獄中で知人にあてた手紙の一節である。
「征夷外夷に降参すればその後に従ひて降参する外に手段なし。独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(注:オランダ語の『自由』)を唱へねば腹悶医し難し、僕固(もと)より其の成すべからざるは知れども、昨今以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益(ひえき)なし。徒らに岸獄に坐するを得るのみ。此の余の処置妄言すれば則ち族せられんなれども、今の幕府も諸侯も最早粋人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし」。
最後には革命的状況を待望しながら松陰は死んでいく。彼のこの悲憤慷慨は、後に弟子たちに伝播していくことになる。
(編集部・間宮 淳)
カバー写真=「大君」徳川将軍の城、江戸城