政策決定における首相官邸の役割
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「官邸」とは何か?
首相の指示によって政策が決定された、あるいは「官邸主導」で政策が立案されたといった記事が、しばしば紙面をにぎわせている。とりわけ小泉純一郎内閣(2001年4月~2006年9月)が、与党・自由民主党内の派閥の意向に添わない閣僚・党人事を進め、大臣および各省に対して首相の意向を通したことが記憶に新しいところであろう。
ここでは「官邸」は建造物ではなく、もっぱらその主(あるじ)である首相を指すが、首相単独で政策を決定することはできない。事前の情報整理や事務的な支援を含めて、官邸にはスタッフが常駐しており、その組織は法制上は内閣官房と呼ばれている。現在では定員800名超の職員が内閣官房に所属し、内閣に設置される「本部」と呼ばれる組織(例えば、第2次安倍晋三内閣[2012年12月~]における「日本経済再生本部」)などで勤務している。官邸は、時の首相ないしは内閣の主要な政治課題を処理する機関となっているのである。
ところが、太平洋戦争敗戦後、日本国憲法が制定され、新しい行政機構が整備される過程では、内閣官房は官房長官と首相の秘書官からなる極めて小規模の組織であった。当時は、現在でいう「本部」は、他の大臣と並ぶ一大臣としての首相すなわち総理大臣直轄の府省である総理府に、「室」という名称で置かれることが通例であった。しかし、徐々に内閣官房は強化され、2001年の省庁再編でここに企画権限が付与されることで、現在のように、自ら具体的な政策案を立案できる巨大組織となったのである。
このような官邸の成長過程は、日本の首相のリーダーシップが、20世紀後半の首脳外交の展開の中で他国とりわけ同盟関係にあった米国大統領と比較されて発展する過程と軌を一にしている。また21世紀に入ると、グローバル企業では経営者の迅速な判断によるトップダウンの意思決定が強調され、これに合わせて、政府においても首相のリーダーシップが求められた。政治的指導者、巨大企業の経営者との絶えざる緊張関係の中で、首相と官邸の機能強化が図られたと見なければならない。
本論では、以上の歴史を振り返りながら、2012年12月の総選挙で再び政権に返り咲いた自民党政権の下で「官邸」はいかなる意味を持つのか、考えてみたい。
一党優位政党制下の官邸主導
連合国の占領終結後、日本は初めて新憲法を連合国軍総司令部(GHQ)の指示なく自らの意思で運用する段階に入った。占領軍の支持を失い弱体化する吉田茂内閣。公職追放を受けていた戦前派の政治家が議員に復帰するだけではなく、新しい国会法に基づいて議員立法を活発に繰り広げる衆参両院。政策の専門知識で政治家を圧倒しながらも省庁再編圧力にさらされ続けた官僚機構。それらが激しく衝突したのがこの時期の特徴である。1955年の左右社会党統一、保守合同による自由民主党結成によって、1955年体制が誕生したが、これは制度の衝突を、自民党対社会党の対立によって最終的に調停するための政党システムでもあった。
自民党が優越政党として1993年の細川護煕内閣成立まで長期政権を占め続けた中、登場したのは「内閣強化論」である。保守合同直後の第3次鳩山一郎内閣(1955年11月~56年12月)では、河野一郎行政管理庁長官の主導で、「トップ・マネージメント」の強化が唱えられた。その主たる内容は、首相と大臣それぞれのリーダーシップの強化であり、実質的には首相の補佐機構である内閣官房の強化、大臣の補佐集団である上層官僚集団の増員であった。
前者としては、内閣官房に「総合調整」機能が付与されて、総理府より一段高い位置から各省間の調整を行う司令塔となることが明確化された。他方、後者では政治家の就任ポストとしての政務次官の増員と官僚の就任ポストとしての事務次官補の設置が掲げられた。これについては結果として、大蔵、通商産業、農林水産の各省に政務次官が増員され、従来一般的ではなかった官房長ポストが事務次官に次ぐ役職として各省に広く普及した。
このような首相と大臣の補佐機構の増員は、官僚の能動的な政策形成を促す自民党政権時代には、漸進的ではあれ継続していった。その頂点は中曽根康弘内閣(1982年11月~87年11月)である。中曽根は、自民党内では少数派閥の長であったため、党内で圧倒的優位にあった田中派と連携したものの、自らは審議会や私的諮問機関を活用し、国会に対する内閣独自の世論形成、与党に対する内閣の優位性を確保しようとした。中曽根が前内閣の鈴木善幸内閣(1980年7月~82年11月)の行政管理庁長官として進めた第2次臨時行政調査会での審議に基づき、内閣官房に外政審議室と内政審議室を設けるなど、スタッフを増員する拡大強化に踏み切った。
さらに内閣官房長官に、警察庁長官などを経て政界入りし、危機管理や情報収集などに長(た)けた後藤田正晴を抜擢して、各省に対する内閣官房とその長である官房長官の優位性を打ち出し、ひいては首相の優越性を明らかにしたのである。なお、中曽根首相は、メディア戦略を本格的に活用した首相であり、私的なアドバイザーも活用した。つまり、内閣官房という正規の首相スタッフと非公式のアドバイザーによって官邸の意思決定が強化されたのである。
総体的にいえば、自民党が安定政権を築いていた時代には、自民党内の派閥と党機関を中心に支持団体間の調整を済ませ、各省間の調整に際しては、首相を支える官房長官と党三役(幹事長、総務会長、政務調査会長)とが裁定することで処理しえたといえる。しかも、2度の石油危機を克服した持続的な経済成長によって、調整に要する資源を比較的簡単に調達できた。各省が省の政策体系を整備・拡大することに政府の主たる目標があり、ぎりぎりの調整を必要としない政策決定に際しては、さほど官邸を強化する必要がなかったというべきである。
連立内閣時代の官邸主導
1993年、宮澤喜一内閣(1991年11月~93年8月)の内閣不信任案可決後の総選挙で、自民党は過半数議席を確保できず、非自民系8政党・会派連立による細川内閣(1993年8月~94年4月)が成立した。以後、与党の組み合わせは変わるが、閣外協力を含めて連立内閣が主要な内閣形成のパターンとなった。首相は連立与党と適宜交渉しながら、政策決定を進める必要に迫られた。しかも、冷戦終結後の世界経済のグローバル化に伴い、急速に変動する国際環境に対応した機動的な政策決定が官邸に求められた。ここに来て、官邸の機能強化と人員の増員は不可避となった。
これに積極的に対応したのが、橋本龍太郎内閣(1996年1月~98年7月)であった。橋本首相は、省庁再編を諮問した行政改革会議を自ら主宰し、官邸強化と省庁数の減少によって、省庁間の権限争議を迅速に処理する体制を構築しようとした。そこでは、各省を越えた政策決定の場を構築することが掲げられ、内閣官房の強化、経済財政諮問会議など大臣と民間有識者がともに議員となる諮問機関の設置、閣内における特命担当大臣の設置、内閣官房・特命担当大臣・各省による能動的な政策調整の制度化が目指された。
小泉内閣
新体制は2001年1月に施行された。そして4月に首相に就任した小泉純一郎は、積極的に新しい官邸の機構を活用した。第1に、新しい機構では、内閣官房に総合調整権限に加えて企画権限が与えられた。従来は政策の原案はあくまでも各省庁が立案し、異論が他省庁から出た場合に最終的に内閣官房が総合調整を行って合意を形成する、というのが手続きの原則であった。しかし、新しく企画権限を持つに至った内閣官房は、自ら原案を作成し、各省庁に対して首相および内閣の基本方針を盾に異論を封じることを可能とした。
そのため、内閣に多数の「本部」が設置され、各省から多くの官僚がここに集められた。本部の事務を担当する内閣官房は新体制前は200名程度であったが、小泉内閣(2001年4月~06年9月)の間に急速に拡大し、800名を超える組織規模となったのである。同内閣では、最終的な調整役として、経済財政については大蔵省出身の首相秘書官が長期の在任によって役割を果たし、内政については内閣発足時にすでに5年以上在任していた事務の官房副長官(官僚から任命)が支えた。
第2に、派閥順送り人事を排した能力主義的な大臣任命の上に立って、小泉内閣では大臣の能力を全面的に発揮することが求められた。その主たる舞台は、内閣に設置された経済財政諮問会議であった。経済財政担当大臣であった竹中平蔵は、官邸を通じて小泉首相の意向を確かめながら、民間議員と共にペーパーを次々と提出し、議論を方向付けた。これに対して、出席する大臣たちは、省の方針と内閣の方向性とを意識して議論に応じなければならなくなった。
もはや、官僚の作成したペーパーを読み上げるだけでは主要な大臣は務まらなくなった。また外交では、内閣発足当初の田中真紀子外務大臣が失態を繰り返したために、福田康夫官房長官が官邸に外交を担当するチームを組織して、米同時多発テロ(9・11)後に米国が主導したテロとの戦争に対応した。
第3に、小泉首相の巧みなメディアパフォーマンスに起因する高支持率が官邸主導を支えた。これには、小泉首相の議員秘書から首相秘書官となった飯島勲など官邸の政治スタッフの役割が重要であった。公式の内閣官房のみならず、非公式の官邸スタッフに恵まれたことで、小泉内閣は5年を超える長期政権となったというべきであろう。
第1次安倍内閣、福田内閣、麻生内閣
しかしながら、この小泉内閣のモデルは、小泉後の第1次安倍晋三内閣(2006年9月~07年9月)、福田康夫内閣(2007年9月~08年9月)に十全に受け継がれることはなかった。それは、以後の内閣が内閣官房、大臣人事、非公式スタッフの3点について、大きくつまずいたからである。
第1に、内閣官房は巨大化しすぎて、新首相が短期でこれを掌握することが不可能となった。本来ならば、一度本部をすべて解散して新しく内閣の施策に応じて、漸進的に組織を拡大すべきだったのだろう。しかし、自民党政権が継続する以上、前政権の課題もまた継承しなければならない。以後の歴代首相は、前政権からの政策課題を抱えながら、独自の課題も打ち上げ、処理しなければならなかった。
その中で、「消えた年金」問題の不祥事のように、自民党長期政権が構造的に引き起こした問題が明らかになるにつれて、官邸も各省も処理しきれない課題を内閣が抱え続けなければならなくなった。しかも、安倍首相は、従来の内閣官房の人事慣行を無視して官房副長官・秘書官人事を行ったため、官邸を通じた官僚間の調整能力は大幅に低下した。一度喪失した人事慣行は、再構築が極めて困難であり、以後の福田・麻生両内閣とも官邸の調整能力を再び強化することはできなかった。
第2に、第1次安倍内閣が典型であったが、大臣の不祥事が続発した。小泉内閣よりは与党に配慮した人事を行ったために、能力・資質を伴わない大臣人事がとられ、それは内閣の失態と支持率低下に直結したのである。かくして、内閣は機能不全に陥った。
第3に、安倍首相以後のどの首相も国民的人気を全く得られなかった。首相の資質もさることながら、それ以上に個性を十分にアピールするメディア戦略のスタッフに恵まれなかったというべきであろう。また、IT技術の進展に伴い、動画の通信が極めて容易になり、政治家の生の姿がそのままウェブに現れるようになった。数十秒から数分のテレビ映像に登場することで国民的支持を集めた小泉首相とは異なり、もはやカリスマ・リーダーが登場する余地は極めて乏しくなったのである。
2007年の参議院選挙で自民党が惨敗し、連立与党の議席が過半数を割ると、官邸主導が機能不全であった内閣には、新しい政策課題に対応することはほとんど不可能であった。ここに2009年の民主党への政権交代が生じたのである。
政権交代時代の官邸主導
2009年、2012年と2度の政権交代が続き、現在ではかつての1955年体制のような長期政権の時代がすぐに到来するとは想定できなくなった。来る政権交代を前に、政権は短期で成果を出すための官邸の組織化を図るようになった。だが、官邸主導のためには大規模な組織が必要である。また、次の選挙に即応するため、選挙対応の実務を担う与党の発言力も増大する。各省と与党内を同時に掌握した上で、機動的に政策形成を行うという課題は、民主党も自民党も手探りで応答しつつあるといえるであろう。
民主党政権/鳩山内閣、菅内閣、野田内閣
まず、民主党政権を振り返ってみたい。「自民党政権時代の政策決定の仕組みを全面的に刷新する」とマニフェストに掲げて2009年総選挙で勝利を収めた民主党政権は、首相の補佐機構の整備には意欲的であった。すなわち、内閣官房の他に国家戦略局、行政刷新会議を整備すると宣言したのである。だが、それぞれの関係は明確ではなく、最終的に野田佳彦内閣(2011年9月~2012年12月)で、首相を直接補佐する内閣官房、経済財政諮問会議に代わる国家戦略会議、行政改革を推進する行政刷新会議という分担となった。次に、事務次官等会議を廃止し、政務の官房副長官(政治家から任命)が主催する副大臣会議によって省庁間調整を果たそうとしたが、機能しなかった。
その前提として必要だったのは、大臣・副大臣・大臣政務官の政務三役が各省を掌握することであった。しかし、官僚の能動的政策形成を禁じたことで、政務三役と官僚とのコミュニケーションが不足した。官僚から政策情報を得られなくなったにもかかわらず、特に鳩山由紀夫内閣(2009年9月~2010年6月)の大臣は、米軍の沖縄・普天間飛行場の「県外移転」を発言した鳩山首相自身を典型に、それぞれが根拠もなく政策を方向付ける発言を繰り返し、混乱を招いたのである。
政権交代が根付いた英国では、しばしば新政権に必要なのは、選挙で提示したマニフェストから実現可能性に応じた順位付けを行い、可能な公約から立案・実施することであると説かれる。しかし、民主党政権は、この意味での政策の序列化に完全に失敗した。そのため比較的早期から準備を重ねていた農家の戸別所得保障などの一部の政策を除いて、政策を具体化することができなかったのである。
これに輪をかけたのは、首相のリーダーシップの欠如である。比較的円滑に政権を運営し、「社会保障と税の一体改革」の法制化に成功した野田首相を別にすれば、鳩山、菅直人の両首相は決定的にリーダーシップとは何か理解していなかった。ともに、補佐役に全くといっていいほど恵まれず、メディア戦略も機能しようがなかった。そして、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定交渉参加、社会保障と税の一体改革といった重要案件の賛否で与党の統合度が極めて低かった。首相の指示が内閣にも与党にも及ばない構造となっていたのである。
自民党政権/第2次安倍内閣
こうした民主党政権の混乱を教訓に、2012年の総選挙で自民党は圧勝し、第2次安倍内閣を組織した。そこでは、第1に首相や大臣の過度のパフォーマンスを抑制して運営に臨んでいる。自民党自体は野党時代に大きく脱皮したとはいえないが、内閣を新しく組織するのとは異なり、各省と連携した党機関の再生は容易であった。従って、官邸と党税制調査会(税調)に代表される党組織が全体として、実効性の定かでない政策の立案を封印しているように見える。
第2に官僚の能動的な政策形成が奨励されており、予算編成過程や公正取引委員長・日本銀行総裁など国会同意人事で明らかなように、財務省の影響力が浸透している。円滑な政権交代は、可能な財政政策の幅の中で行われうることが明らかになりつつあるといえるであろう。
第3に、官邸は、官房長官が全体を掌握し、2013年7月の参議院選挙後をにらんで、衆議院選挙の公約に掲げられた項目について、次々と諮問機関が設置され、審議を開始した。選挙後には新規の政策案が示され、その具体化が官邸の課題となるであろう。参議院選挙で過半数議席を得られれば、再び官邸主導が機能する可能性が開かれている。もっとも、官邸には経済産業省系の官僚が重要ポストに配置されているが、省の多くは旧内務省系の省であるため、やはり内務省系の省の出身者が官邸での政策調整の全面に立つ必要がある。また、第2次安倍内閣の中心的施策である経済政策については、再び活用され始めた経済財政諮問会議と、内閣の意向で設置された日本経済再生本部との間の機能分担が未確定である。
そのため、いずれ官邸の組織再編は避けられないであろう。当面優先して処理する必要のある課題に併せて、どう機動的に内閣官房を組織できるかが試されつつある。しかも、7月の参議院選挙後には、衆議院議員の任期が終了する2016年までに解散がなければ、3年間は国政選挙がないことになる。この間に、政権交代の時代にふさわしい官邸主導のモデルが作られるかどうかが問われるのである。
(タイトル写真=東京・永田町の首相官邸[撮影=久山城正])