「慶長遣欧使節」派遣400周年

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1613年、仙台藩主伊達政宗公の命を受けた支倉常長ら慶長遣欧使節は、メキシコを経由して欧州に向い、スペイン国王とローマ教皇に謁見した。これを起点とする日・スペイン交流は、2013年に400周年の記念年を迎える。慶長遣欧使節の足取りから、大海を跨いだ交流の展開を概観する。

「慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)」と呼ばれる人々が、現在のメキシコ経由で欧州に至る旅に出てから、2013年で400年目を迎える。ただしこの「使節」は、送り出された直後から、明治政府によってヨーロッパ諸国視察に派遣された岩倉使節団が、明治6年(1873年)にローマでその痕跡を教示されるまで、250余年間にわたって日本では忘れられていた。これは、江戸幕府による対外関係の方針変更のためである。

地球の3分の2周分を往復する大旅行

1613年10月末、スペイン人と日本人を合わせて180余人が、仙台藩主・伊達政宗の経済的援助を受け、スペイン人の造船技術により建造されたサン・フアン・バウティスタ号に乗船し、月の浦(つきのうら:宮城県石巻市)を出帆した。彼らは、ほぼ2ヶ月後に北米大陸のアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)に到着し、スペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王府のあるメキシコ・シティに上った。

ヨーロッパに向かう20余人の使節本体の正使格は、フランシスコ会士・ルイス・ソテロ神父である。ソテロは、1603年に来日したセビリア出身のスペイン人で、この計画と実行の中心人物であった。使節副使格にして、日本人20余人の統括者は、伊達藩士・支倉六右衞門常長(はせくらろくえもんつねなが)で、使節は彼の名から「支倉使節」とも通称される。

メキシコ・シティに上がった使節は、その後、大西洋を越えるためにベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に下り、定期便でセビリア(スペイン・アンダルシア州)へ向かった。なお、同道の他の日本人は、メキシコ・シティにとどまり、1615年に徳川幕府向けのスペイン人使節と共に帰国している。使節は、1614年10月にヨーロッパ大陸に上陸し、セビリアで歓迎行事に与(あずか)った後、スペイン帝国の都マドリードに案内され、1615年1月国王フェリペ三世の謁見(えっけん)に与(あずか)った。その後、バルセロナ経由でローマに渡り、11月にローマ教皇の謁見(えっけん)を得て、翌年1月にスペインに戻った。

1617年7月、使節はセビリアを離れ、メキシコに戻った後、スペイン帝国の一総督領であったフィリピン・マニラに向かった。日本では、徳川幕府のキリシタン弾圧が厳しさを増しており、直接日本に至ることは、乗客・乗員を危険に晒(さら)すと考えられたからである。1620年、支倉ら日本人は、マニラから人知れず帰国した。他方、ソテロ神父は、1622年にマニラから再日本入国を試みたが、上陸後、禁制キリシタン宣教師として即捕縛され、1624年、肥前大村(長崎県大村市)で焚刑(ふんけい)に処せられている。

使節の成果が何であったか、即断することは難しいが、実に10年に及ばんとし、地球3分の2周分を往復する大旅行となった。

慶長遣欧使節:派遣の目的と謎

出発時の慶長遣欧使節の目的が何であったかについてだが、ソテロ神父に関しては、スペイン王の支援による日本のカトリック化という熱意、もしくは野望が明白である。他方、徳川幕府は何を求めてどう関与したか、伊達政宗がなぜ資金提供者になったのか、さらには何のために大勢の日本人がメキシコまで渡ったのか、事実と確言できることは決して多くない。使節の目的は、今日の我々にとってばかりではなく、使節を一応受け入れることに決めた当時のスペイン王室にとっても不明な点が多かった。

最も大きな謎は、徳川幕府による凄惨(せいさん)なキリシタン迫害の報が次々と入る中で、使節は、日本教会の発展のため国王に宣教師のさらなる派遣を依頼し、また、支倉や同行の日本人らが少なからずカトリック洗礼を受けたり、京都や堺のキリシタン代表の書簡を教皇宛に持参していることである。謎を深める原因の一つは、「僧侶としては惜しい策略家」とまで言われたソテロ神父が、奇策と呼ぶべき綱渡り的な策を弄(ろう)したことにあるが、使節を記録した人々の情報源と立場に偏りがあったことも一因となっている。

支倉も日記を残したようだが、その存在は、1810年代を最後に不明となっている。ヨーロッパ側の史料には、イタリアで彼らを世話したシピオーネ・アマチの著『伊達政宗遣欧使節記(Historia del Regno di Voxi del Giapone, dell’ Antichita, nobilta, e valore dell suio Re Idate Masamune...)』があるが、前半部分の情報源はソテロである。『チマルパイン(Chimalpahin Cuauhtlehuanitzin)の日記』は、メキシコで使節を観察した元アステカ王族の手による観察であり、客観的だが部分的である。また、同時期に日本の東北地方で活動したイエズス会士が、ローマの総会長にこの件を書き送っているが、修道会間の対立が挟(はさ)まるため、全面的信頼を置くのは難しい。

研究者らは、その他ヌエバ・エスパーニャ副王と本国との通信書簡や、スペイン植民地に関する事柄を審議・決定したインディアス枢機会議と王の通信文をもとに、スペイン王室が、同使節の信憑性に疑義を抱きながらも、国是(こくぜ)のカトリック宣教を意識し、絶対的財政難の中で出費に苦慮しつつ歓迎した様を描き出している。

400年前の日本人使節とヨーロッパ

400年の時を経て、慶長遣欧使節派遣という歴史的事実から何が見えるかについて、日本人の立場から以下2点を指摘したい。

使節に同行の日本人の中には、メキシコで離脱した者や、スペインに残った者がいる。他文明に足を踏み入れた日本人がどのように振る舞ったかは、興味深いことだが、セビリア大学教授フアン・ヒル氏(スペイン歴史アカデミー会員)は、スペインやメキシコに残留したとおぼしき日本人のその後を史料に基づき推定し、その姿は決して無気力な脱落者ではなく、自己を自律的に生きる者であったとしている。また、使節を見たヨーロッパ人は、一行が立派に行動する落ち着いた人々であったと記している。これにより、江戸初期の日本は、フランシスコ・ザビエルが来日した当時(1552年)とはすでに大きく様変わりし、経済的・社会的豊かさを享受する時代に入っており、広い意味での文明世界の教養を身につけた人物も決して例外的ではなかったことがわかる。また、17世紀前半という、ヨーロッパが社会経済的にアジアを追い抜く遙か以前には、両世界の間のギャップは、西欧中心主義的な後世が想像するものとは異なるともいえそうである。

太平洋を渡る技術が生んだグローバルな展望

次に、ソテロ神父や伊達政宗、徳川幕府の熱望または野望は、互いに方向は全く異なっていたが、メキシコやスペインまで人を遣わすというところで一致していたということに注目したい。それは、すでに太平洋を越える技術を築き上げ、恒常的な人の移動手段が確立されているとの認識があってこそ描けた夢であり、野望である。同時期以前のメキシコやペルーのリマの住民調査からは、使節同行者より早くアメリカ大陸に渡った日本人がいたことが知られているが、彼らを運んだのは、マニラとアカプルコの間を年一回定期運行していた通称「マニラ・ガレオン」である。アメリカ先住民族もこの船でアジアに渡ったし、アジア側からは華人、日本人、そしてフィリピンやインド、東南アジア諸地域出身の人々が太平洋を渡った。

スペイン側の記録は、彼らを一様に「インディオ」と記しているが、時々示される出身地は、その多様さでわれわれを驚かす。彼らがどの程度主体的に乗船し、生地を後にしたのかは不明ながら、諸史料は、それがさほど特異な体験ではなかったことを示している。長距離の定期的移動手段が身近に認識され、それを少し外れる航路にも信頼が得られていたからこそ、ソテロ神父や政宗も、継続的な国際関係を展望することができたのである。これは、地球一元化現象の著しい今日において、その進度を示す歴史的出来事として意味を持ち、位置づけ得る史実ではないだろうか。

(2012年12月24日)

タイトル背景写真=支倉常長像(宮城県石巻市月の浦公園)

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