台湾で神社が多数造営されたわけ
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1895年4月17日、日清講和条約が調印された。台湾および澎湖島の日本への割譲が決定したことにより、日本の地にしか祭られなかった神道の神々が新しく日本の領土となった台湾へ、ヒト・モノ・カネの移動に伴い、海を渡り、台湾の地に祭られた。
6年後の1901年10月27日、台湾の総鎮守として台湾神社(44年に台湾神宮に改称)が鎮座した。そして、開拓の神々である大国魂命(おおくにたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)および少彦名命(すくなひこなのみこと)と北白川宮能久親王(きたしらかわ・よしひさしんのう)が祭神として祭られた。
皇族として海外での逝去が台湾での神社創建運動のきっかけに
1895年5月31日、能久親王は日本の台湾領有に伴い、近衛師団を率いて澳底(おうてい)に上陸し、基隆から台南まで武装集団との抗争を繰り広げた。近衛師団を悩ませたのは、これまで体験したことがない、台湾特有の湿気をもった暑さと非衛生的な環境であった。能久親王も台湾南部の嘉義を越えた辺りでマラリアに感染し、高熱と下痢とに闘いながら、「平定の戦い」の最終地点である台南に到着するが、10月28日に逝去してしまう。皇族として初めて日本以外で逝去したことで、国内では能久親王を祭る神社創建運動が高まる。その後、「別格官幣社を台湾に建設する建議案」が1900年9月に衆議院で可決し、同時に内務省告示81号が告示され、台湾神社は植民地で初めての官幣大社として創建されることに決まった。能久親王の薨去(こうきょ)した10月28日を例祭日として、01年10月27日に鎮座した。
台湾の地方都市にも広がる神社の造営
台湾神社が鎮座すると、主だった地域で一斉に神社の造営が始まった。台湾統治上の必要性は迅速な「日本化」の浸透であった。日本化とは天皇を中心とした天皇主権国家であり、その中に占める神道の神々を祭る神社は絶対的な権力の象徴でもあった。
台湾の行政地区の中心となった地方都市には県社規模の神社が造営され、台湾神社の祭神を祭り、それぞれ県社として列格されていった。県社への列格年代順で見ると、開山神社(1897年)、台中神社(1913年)、嘉義神社(17年)、新竹神社(20年)、花蓮港神社(21年)、台東神社(24年)、阿緱神社(26年)、宜蘭神社(27年)、高雄神社(32年)、基隆神社(36年)、そして、澎湖神社(38年)となる。
台湾が日本となった初期では、神社造営と各種国家記念事業である御大典(大正天皇即位の礼、15年)、皇太子行啓(23年)および御大典(昭和天皇即位の礼、28年)は大いに関係があり、これらの記念事業をその神社造営の推進力とした。その後、31年9月に満州事変が発生。32年3月には満州国が樹立され、33年3月には国際連盟から脱退したことにより、日本を取巻く情勢が急変した。日本は国際情勢の緊迫化を伴う国家非常事態体制下にあった。この頃は台湾における神社の重要性が大きく変化する節目でもあった。国民に対して国威発揚、国民精神の高揚などが叫ばれ始め、国家神道に基づき、国民精神の育成が急務となり、神職会(神社本庁の前身)から神宮(伊勢神宮)大麻が主だった神社経由で本格的に頒布されていった。この過程で、地域の土地守護神として34年末、北港神社(台南州北港郡)が社格をもつ「神社」として造営され、台湾での神社造営ラッシュの先陣を切った。
神社規定の整備
1934年9月に台湾総督府文教局から「神社建設要項ニ関スル件」として、初めて「神社」に関する規定が提示された。神社には「神社」と規定される要件があった。
(1)必要条件として、境内入口に鳥居があり、社殿(本殿、拝殿)まで参道が通じ、参道のそばには手水(ちょうず)舎、社務所などがある。
(2)敷地4~5000坪(1坪3.3平方メートル)以上、本殿 5坪程度、拝殿 20坪程度とされた。
(3)「神社」であるためには、崇敬者または氏子は50人以上とし、その中の総代が神社に関する維持のための一切の事務を行う義務を有する。
つまり、この要件に当てはまるのが、台湾総督府文教局社会課が発行した『台湾に於ける神社及宗教』(43年3月発行)であり、また、田村晴胤(たむら・はるたね)による『神の国日本』(45年2月発行)に掲載されている68社の神社であった。これらは、祈年祭・新嘗祭に天皇や国から奉幣(神饌=しんせん=以外で神に奉献すること)や幣帛(へいはく)料(金銭での奉献)を受ける官幣社(2社)や国弊社(3社)を筆頭に、県社(8社)、郷社(17社)、無格社(36社)、そして、台湾護国神社と建功神社を含んだ。なお、終戦間近に3社が無格社から郷社へ列格され、最終的に郷社は20社、無格社は33社となった。
神社造営にブレーキをかけた戦争
1936年7月に総督府より「民風作興運動」が宣言され、敬神崇祖思想の普及、皇祖尊崇、そして、台湾人に対しては国語(日本語)普及および常用が求められた。その1年後の37年7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争へと発展する。そして、同年9月には第一次近衛内閣による「国民精神総動員運動」が提唱された。このような状況下、海軍軍人の小林躋造(こばやし・せいぞう)が第17代総督に就任すると、これまでの「民風作興運動」をさらに発展させた「皇民化運動」が提唱され、改めて、地方の行政単位である街や庄にまで神社を造営しようとする「一街庄一社」政策が叫び出された。この方策として神社参拝、大麻奉斎、そして、台湾人の家庭では正庁改善(祖先位牌や道教などの神々を祭る祭壇に代わり、大麻を祭った日本式神棚への改善)や寺廟整理(寺廟の取り壊しや統合)が展開されていった。
盧溝橋事件に端を発した日中戦争に続き、41年12月に日本は太平洋戦争に突入する。この頃になると既に地方財政の疲弊が現れ始め、神社敷地の買収費を含めた神社造営費はますます巨額となった。さらに神職の確保にも支障を来したため、新たな神社造営に急ブレーキがかかった。34年に北港神社が造営されて以来、終戦までの10年間に、わずか32社の神社が造営されたにすぎない。「一街庄一社」政策は掛け声に終わり、現実的な「一郡一社」程度で終わった。
一方で、新竹神社、台中神社や嘉義神社の県社から国弊小社への列格、また、数多くの無格社を郷社へ列格(37年10月~45年4月までの間に21社)することにより、神社の尊厳さを高めた。さらに、神社とは別に、その神社の管理に属した摂末社(せつまつしゃ)の造営や遥拝所(ようはいしょ)により、国家神道の浸透を図った。
バナー写真=現在の台湾神社跡地、円山大飯店(撮影:金子 展也)