台湾で根を下ろした日本人シリーズ:毎日がスタートライン——タレント・夢多(大谷主水)
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かつて日本国内の大会では連戦連勝の活躍で、高校2年生にしてテコンドーの日本代表入りを果たし、国際競技会にも度々出場するなど、将来のオリンピック代表を嘱望された宮崎県出身の選手がいた。それから20年後の現在、彼は活動の舞台を台湾の芸能界に移し、視聴率トップを誇る旅グルメ番組のリポーター、バラエティー番組のレギュラー出演者として、またモデルや俳優、武術指導者として、活動を縦横無尽に繰り広げている。日本のトップアスリートだった大谷主水が、日本出身の台湾のタレント「夢多(Mondo)」として、どのように転身を遂げ、展開し、これから何を目指しているのか。台北のトレンド発信地「東区」のカフェでじっくりと話を伺った。
17歳でテコンドーの日本代表になり、テコンドーを通して台湾と関わる
大谷は子供の頃からやんちゃだった。しかし、正義感が強く、ケンカもめっぽう強かった。同じ学校の同級生が他校の生徒からいじめられると、自ら敵討ちを買って出るような少年だった。そんな大谷少年がテコンドーと出会ったのは、異種格闘技の試合をテレビでたまたま見たことだった。
「テコンドー出身の選手が出場していたのです。彼は試合には負けたのですが、何より闘う姿が美しかったことに引かれました。もともとブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れていたこともあり、実家の近所のテコンドー道場に通い始めました」
道場での稽古の初日、上級者からいきなりスパーリングで徹底的にしごかれた。全く歯が立たず、悔しさとともに自分が井の中の蛙(かわず)だったことを知る。しかし、ここで持ち前の負けず嫌いの性格が頭をもたげ、強くなりたい一心で大谷は練習に没頭することとなった。その後はめきめきと頭角を現し、中学3年生の時にテコンドーの全日本ジュニア選手権で優勝すると、高校時代も破竹の勢いで全国大会を制した。そして、弱冠17歳にしてテコンドーの日本代表入りを果たした。
初めての国際大会となった1998年のアジア選手権ベトナム大会の1回戦では、世界ランキング3位のフィリピンの選手と対戦した。左足を負傷しながらも善戦したが、結果は敗退。カメラの前で号泣した大谷は、日の丸を背負う重さをこの時に理解した。その後、テコンドーの名門、大東文化大学に推薦入学すると、大学選手権4連覇を果たし、もはや国内では向かうところ敵無しだった。しかし、世界の壁は依然として大谷の前に立ちはだかる。2001年のワールドカップベトナム大会では、1回戦で世界選手権3連覇中の韓国の選手といきなり対戦。自分の不用意な仕掛けからカウンターのハイキックをあごに受けて流血、結果はまたも初戦敗退だった。
「自分に対して怒りが込み上げました。国内無敗だったことに慢心していたのです。韓国のあの選手に勝ちたい。オリンピックで金メダルを取りたい。自分の心に再び火が付きました」
ところで、全米オープンの国際大会に出場するため、ラスベガスに向かう機中で大谷は偶然、台湾の代表選手団と隣り合わせになる。台湾は独自のスタイルを貫くテコンドーの強豪国だ。ところが、機内で乗り合わせた台湾の選手たちは、これから国際大会に向かうというのに緊張感とはまったく無縁で、和気あいあいとしていた。普段は陽気だが、試合ではめっぽう強い台湾選手に大谷は興味を持った。米国から帰国すると、日台双方のオリンピック委員会のルートを通じ、台中の台湾体育学院へのテコンドー留学が決まった。こうして大谷と台湾との縁はつながった。04年のアテネオリンピックの前年のことだった。
アスリートからタレントに転身
台湾体育学院での1年間は、土・日曜日も返上してテコンドーの練習に明け暮れた。厳しくも楽しい日々だったと大谷は振り返る。ところが、アテネオリンピック代表選考会の目前でけがをし、大谷は日本代表入りを逃してしまう。環境を変えて出直そう。親友の勧めもあり、テコンドーの本場の韓国で北京オリンピックに向けての再出発を決めた。大谷は母校の大東文化大学と交流提携のあった韓国の啓明(ケミョン)大学に3年生から編入した。啓明大での練習は台中体育学院にも増してハードだった。毎日意識が無くなるほど、基礎練習を徹底して繰り返した。日本の大学選手権で連覇を続けていた大谷は、05年にマカオで開かれた東アジア競技会の58キロ級で日本代表に復帰した。ところが、ここで心に異変が起こる。
「試合をしている最中に、自分はこれ以上強くなれるのかという疑問がふっと湧いたのです。集中力が切れたのですね。06年の世界学生選手権でじん帯を切って北京オリンピックは諦めたことになっていますが、その前にすでに心が折れていたのです」
スポンサーも一気になくなり、収入も途絶えた。しかし、今更日本に帰るという選択肢は無かった。少年時代から国際大会を転戦し、異国を見て来た大谷は、海外こそが自分の生きる舞台と感じていた。オリンピックで金メダルを取る夢を途切らせたまま帰れないとの思いもあった。大谷が向かった先は、かつて留学で1年間を過ごした街、台中だった。台湾とは「魂の波長が合った」のだ。果たして、台中のデパートで芸能プロダクションからスカウトを受け、大谷の次の目標は「台湾でスターになること」に定まった。こうして、「大谷主水」は台湾でタレントの「夢多(Mondo)」となった。07年のことである。
台湾で最も露出度の高い日本人タレントになる
夢多の台湾での芸能活動のスタートは散々だった。何度もテコンドーの国際大会を経験していた彼は、カメラ慣れはしていた。しかし、演技は初めてだった。キャスティングの指示通りの動きができず、オーディションは19連敗。仕事のもらえない日々が続いた。しかし、20回目の挑戦で製菓会社のCMの撮影が決まると、少しずつ仕事が入るようになった。だが、まだ何とか生活できる程度だった。数年間こうした状況が続いた。次の転機は11年に訪れた。
「香港のアクションスターのサモ・ハン・キンポー(洪金宝)の息子のジミー・ハン(洪天祥)と出会ったのです。ジミーの事務所に所属しながら、武術道場の『傅龍会館』に通い始めました。この道場には『F4』のバネス・ウー(呉建豪)やディーン・フジオカも出入りしていました。ジミーの下でスタントマンや殺陣付けなど裏方の仕事をもらいました。これが、その後2016年の台湾の旧正月映画『人生按個讚』でアクション監督を務めることにつながりました」
しかし、やはり自分は表舞台で勝負したい。そんな思いを募らせるようになった。その直後、東森テレビ局の人気バラエティー番組『二分之一強』からレギュラー出演のオファーがあった。それと前後して13年の『変身』、また日本でも公開された14年の『大稻埕』、17年の『ママは日本に嫁に行っちゃダメと言うけれど。』など台湾映画、日台合作映画にも続々と出演。さらに16年には、三菱重工のエアコンのイメージキャラクターにも採用された。台北駅の隣のビルの壁一面に夢多の全身ポスターが張り出され、名実ともに台湾で最も露出度の高い日本人タレントとなった。
この時期、並行して14年からの3年間、夢多は出身地のMRT宮崎放送の「食リポート」番組『大谷主水のミヤザキ レリート タイワン』の制作にも関わり、メインパーソナリティーとして宮崎の魅力を台湾に発信し続けた。その実績が買われ、17年には海外での宮崎県の観光・産業・歴史文化を総合的にPRする「みやざき大使」の委嘱を受けた。また、同じく17年には、台湾のみならず東南アジア各国や豪州でも放映されている、TVBSテレビ局の旅とグルメの人気長寿番組『食尚玩家』の現場リポーターにも、外国人として初めて採用された。夢多自身がずっと憧れていた番組だった。
今日より明日、今年より来年、毎日がスタートラインの人生
テコンドーで鍛えた肉体美と運動能力、バラエティー番組で磨かれた現場対応力と流ちょうな中国語での軽妙なトーク、二枚目と三枚目が混在し、視聴者から愛されるキャラクター、裏方の経験による制作スタッフへの気遣い、グルメ番組で得た食に関する豊富な知識、それらの総合力が夢多の今につながっている。また最近、口述筆記による自伝『叫我真男人』も出版し、モデル、俳優、司会者など、マルチタレントとしてまさに旬を迎えている夢多だが、現在の本人の立ち位置を問うと、次のように明確に定義してくれた。
「雖然我是日本人,但是我是台灣藝人(自分は日本人だけれども台湾の芸能人です)」
今後は中国や香港、その他の中華圏でも活動の枠を広げ、日本も含めてアジア全体を見据えていきたいと語る夢多に、日本への「逆輸入」の可能性について水を向けると、即座にそれを遮り、こんな答えが返って来た。
「自分は『逆輸入』という言葉が大嫌いです。こちらが本家という上から目線を感じます。自分は最初から海外で骨を埋める覚悟で来ています。どこにいてどこで活動しようと自分は自分。今日より明日、今年より来年。自分にとっては『毎日がスタートライン』、それだけなのです。」
3年前に他界した夢多の父は陸上の短距離選手で、400メートル走の宮崎県の記録保持者だった。その父は1964年の東京オリンピックの聖火ランナーを務めていた。夢多自身も98年の長野オリンピックの聖火ランナーを務めている。父から息子へ受け継がれたアスリート魂は、姿を変えて台湾という土地で開花した。当面の目標は「3年以内に『金鐘奨』のバラエティー番組部門の最優秀司会者賞を取ること」と断言する夢多。今日も新たなスタートラインに立っているはずの彼が、台湾の芸能界で金メダルをつかむ日も、そう遠い未来ではないだろう。天国の夢多の父が誰よりもその日を楽しみにしているはずだ。
バナー写真提供=夢多