日仏文化交流のパトロンを目指した「バロン薩摩」
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パリ「日本館」の創設者
日仏交流には沢山の歴史がある。そのひとつにパリ国際大学都市の日本館、別名「薩摩館」の創設者「バロン薩摩」こと、薩摩治郎八の語り継がれる物語がある。
実はジャポニズムの時代が過ぎて、第一次世界大戦が終了した後、日本はアジアの強国として国際社会に本格的に存在感を示すようになる。国際連盟の「五大国」として常任理事国の一員となり、新渡戸稲造や杉村陽太郎ら連盟事務局次長として世界で活躍した人物もいたばかりか、陸続と留学生がパリに押しかけ、エコールドパリの風潮の中で藤田嗣治をはじめとして多くの芸術家が活躍した。
フランスの魅力、文化力に惹かれてのことであった。すでにフランスは世界の「国家ブランド」のイメージを形成していたのである。そして日本の国際交流を語るときに、すでに戦前にこのような蓄積があったことを忘れてはならないのである。
大富豪、木綿商店の三代目 治郎八
この時代パリを舞台に華やかに咲き誇った一つの青春が、薩摩治郎八の青春であった。その名は今でも日本館の創設者として多くの人々の記憶に残っている。
薩摩治郎八は1901年に生まれた。その祖父、初代薩摩治兵衛は江州生まれの典型的近江商人で、江戸末期に日本橋の呉服屋に奉公したあと木綿商として独立、幕末彰義隊が上野に立てこもり江戸が騒然とした時期にも薩摩商店は同業者の中でただ一軒開店し、さらに西南戦争の折には木綿が品不足となることを見越して買占めをおこない、巨万の富を得たと伝えられている。その後、渋沢栄一の提案で設立された国営綿紡績工場の発起人にも抜擢されている。
この日本一の木綿問屋の三代目として生を受けた治郎八は、幼少のころより学校になじめず、第一次大戦終了後の1920年の秋19歳のとき、イギリスに留学した。その後、22年の春にはフランスに渡る。
当初治郎八は、オックスフォードか、ケンブリッジで経済学を学ぶという建前で渡欧したが、そうした目的は間もなく放擲され、文化芸術趣味に傾倒していった。自らも歌集を編み、戯曲を書いたりした治郎八はその方面での野心もあった。
治郎八の父、二代目当主、治兵衛は自ら建築や温室栽培をよくする西洋文化趣味の人で、治郎八のヨーロッパ教養主義に影響を与え、ヨーロッパ遊学に理解を示した。そのおかげもあって、この日本の青年は年齢不相応な多額のお金をパリで消費し、ついに国家的事業である日本館の建設を実現させた。
パリの社交界で名をはせた華麗な青春
治郎八は、一條實孝公爵(在仏大使館付海軍武官)夫妻の庇護のもとに、華族を中心にパリで社交生活を送る日本の人々とも知り合った。治郎八は自前の車をつくらせて、家紋を入れ、著名な夫人のサロンに出入りし、美しいモデルと恋に陥り、颯爽とパリの社交界で名を知られた。
治郎八は、パリを根拠地として一世を風靡した舞踏家イサドラ・ダンカンやロシア・バレエ団に関心を持った。その後オペラ、音楽に親しみ、コンサートやオペラに足しげく通ううちに、こうした世界とも直接かかわるようになった。イサドラ・ダンカンとは面識もできた。当代随一の音楽家たち、モーリス・ドラージュ、モーリス・ラヴェル、ジル・マルシェックスらとも親交を持った。ロンドン在住の時には藤原義江を支援したともいわれ、藤田嗣治とはパリ在住の初期のころから親交があった。日本館には今でも藤田嗣治の二葉の絵が飾ってある。
治郎八の妻千代は、維新の功臣、山田顕義伯爵の孫娘で、誉れの高い家柄の上、当時としては日本人離れした風貌の美人とあって、夫妻はパリの社交界で注目を浴びた。千代は絵を描き、モード紙にまで紹介された、全装いぶし銀、金物は純銀メッキの新車クライスラーに乗った千代は、1928年カンヌで開催された「全欧州自動車エレガンス競争」で優勝し、大衆紙「L’intransigent」の一面にその写真が掲載された。
国際交流の掛け声が喧しい昨今だが、第一次世界大戦後の日本には、すでに世界で交流できる私人が育っていた。
1929年、パリ国際大学都市に日本館建設
治郎八の豪奢な交遊ぶりを取り上げて、彼を「蕩尽者」として取り上げる見方もあるが、治郎八は日仏・日欧親善の文化事業振興のためのパトロンとして社会に貢献しようとした篤志家とみなした方がよい。
そして治郎八が後世に残した偉業は何と言っても、1929年、パリ国際大学都市に今も残る「日本館」、正式名称は「パリ大学、薩摩財団、日本人学生会館」、俗称「薩摩館」の建設であった。実は25年に帰国した治郎八が、翌年再びパリに戻るための口実が、この日本館の設立のためであった。
パリ国際大学都市は、当時文部大臣アンドレ・オノラが留学生のための宿泊・文化交流施設の建設を提唱し、各国がそれに応じたものであった。それは1920年のことであり、ポール・アベルパリ大学総長と実業家エミール・ドゥイッチェ・ド・ラ・ムルトの多額の寄付によって実現したプロジェクトであった。筆者自身、80年代に学生として留学した時に大学都市発祥のもっとも古い、このドゥイッチェ・ド・ラ・ムルト館に部屋を借りたことがあった。建物は古色蒼然としたままで、利便性に欠けたが、剪定された中庭を眺めつつ往時の国際文化都市の面影に思いを馳せたことがあった。
日本館建立の話を薩摩治郎八にもってきたのは、西園寺公望の秘書松岡新一郎と外務省欧米局長(後の首相)広田弘毅であったと伝えられているが、薩摩家はこの建設に現在の通貨価値にして十億円を超える資金を出した。こうした交渉が形になり始めたのが、1925年に治郎八が一旦帰国した時のことであった。治郎八はこの日本館の実現に夢を託して、新たに渡仏したのであった。
1929年五月、日本館の開館式はドメルグ仏大統領、ポワンカレ首相らが列席した豪華な顔触れのものであった。その夜の大晩餐会はホテル・リッツで行われ、眩いばかりの衣装の婦人たちの列席のもと、最高級の料理とワインが提供された。治郎八が一世一代、パリに見た一夜の夢物語であった。
文化交流と国際平和のためのパトロンの夢
治郎八はこの一事をもって日仏関係の歴史に名前を残すことになったが、それ以外にも、在仏日本人美術家による「フランス日本美術家協会」結成への資金援助、同協会が行ったパリとブリュッセルでの3回にわたる展覧会への協力、岡本綺堂の戯曲「修善寺物語」のパリ公演、フランスのピアニスト、アンリ・ジル=マルシェックスの日本公演の実現にも尽力した。ジル=マルシェックスの公演は帝国ホテルでの6回に及ぶ連続講演会を含む17回にも及んだ。当時ドイツ古典音楽に聞きなれた日本人にはフランス音楽は新鮮であった。梶井基次郎や堀辰雄ら著名な文学者らも列席していた。
両大戦間期日仏文化交流に私財を投じて尽力した、西欧文化に心酔したひとりの日本人の壮大なロマンが浮かびあがってくる。
西欧芸術趣味を契機に、文化交流に目覚めた治郎八は、日本館設立直後帰国し、薩摩財団在京委員会を設立してその運営に尽力した。日本人フランス政府給費生の誕生、日本館内の日本学研究所の設立などに貢献した。日本国内での日希協会理事を務め、プラハの東洋研究所付設日本協会主催の講演会で講演したりしている。
治郎八はしだいに国際交流を自らの使命とするようになっていった。それには日本館設立の際に知り合い、治郎八が終生尊敬し続けたオノラの影響があった。パリ国際大学都市の創立者であるオノラは今日でも公衆衛生環境向上、結核撲滅、戦争孤児援護などに尽力した人道主義的な政治家として知られるが、学生交流を通した国際親善と世界平和に心血を注いだ政治家だった。治郎八も自らそうした世界平和への貢献を強く自覚するようになっていたのである。一旦帰国した治郎八であったが、この間1930年3月から38年5月にかけて五度も渡仏・渡欧している。
そして39年11月パリ日本館を案じた治郎八は戦火のフランスに戻っていった。病がちながらフランス人の知己を頼って戦時下のフランスで暮らし、戦後ユネスコで職を求めたが果たさず、51年5月に帰朝した。薩摩商店はすでに1935年12月に閉店し、国際平和と文化振興のための「パトロン」としての夢はかなわず、西洋文化の香りを伝える物書きとして名を成し、二回り以上も年齢差のある浅草のダンサーと結婚して、再婚相手の郷里徳島で生を終えた。日仏交流を自ら体現した稀有な生涯であった。
参考文献
「芸術新潮」(新潮社、1998年12月号)
小林茂 『薩摩治郎八』(ミネルヴァ書房、2010年)
村上紀史郎 『バロン薩摩と呼ばれた男』(藤原書店、2009年)
獅子文六 『但馬太郎治伝』(講談社文芸文庫、2000年)
薩摩治郎八 『せ・し・ぼん』(山文社、1955年)
薩摩治郎八 『巴里・女・戦争』(同光社、1954年)