ヒロシマ・鎮魂の式典と原爆ドーム

政治・外交 社会

被爆地・広島、そして長崎。人類史上初の原子爆弾投下から半世紀をはるかに超える時間が経過しながら、その歴史的な深い傷は癒されることなく、いまもなお永く重い響きの鐘を鳴らし続けている。にもかかわらず2011年3月に起きた福島第1原子力発電所事故の深刻な放射能汚染による新たな被ばく。この現実を、日本人だけでなく世界の人々はどう考えればいいのだろうか。

69回目の被爆の日

広島のその日は、月曜日の快晴の朝だった。1945年(昭和20年)年8月6日午前8時15分、広島に投下された原子爆弾は、地上600メートルの上空で強烈な閃光と轟音とともに炸裂(さくれつ)した。

69回目の被爆の日を迎えた広島市は、投下の日と異なり雨天となった。雨の中で行われた広島市主催の平和記念式典(正式名「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」)には安倍晋三首相、ケネディ駐日米大使ら多くの人々が参列した。

世界的な建築家・丹下健三(故人)が設計した“はにわの家型”の原爆死没者慰霊碑(同「広島市平和都市記念碑)」の石碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と記されている。

多くの人々に「許すまじ原爆は」と歌われ、「No More Hiroshima」と繰り返されてきた“鎮魂のヒロシマ”。8月6日の式典から灯篭(とうろう)流しまで、そこに参列し祈りを捧げた被爆者や遺族の人々、あるいは平和を希求する人々の一日を、写真と映像によって追い、再現してみた。

原爆ドーム内から見上げた青空

広島市と広島フィルム・コミッションの協力と許可を得て昨年、2013年9月上旬、現在「原爆ドーム」と呼ばれているかつての「広島県物産陳列館」の柵の内側に入って、360度の写真撮影を行なうことができた。雲一つない澄み渡った青空に浮かび上がったドームは、原爆投下時の大破した姿のまま立ちすくし、レンガのがれきが散乱する館内から見上げたドームの天井には、核兵器廃絶を求めるシンボルのようにむき出しの鉄骨がアーチを模っていた。

さらに、被災地ヒロシマを震災直後から取材続けてきた地元紙・中国新聞のヒロシマ平和メディアセンター長の田城明特別編集委員に、『今も続く核脅威とヒロシマの役割』と題して2013年夏に、特別寄稿をいただいた。この中で田城氏は、核兵器使用の可能性は冷戦時代より高まっていると指摘するとともに、被災地ヒロシマの復興が容易でなかったことを改めて強調。そのうえで、田城氏は福島原発事故にヒロシマの多くの被爆者の人々が「やり場のない怒りと無念さ」を感じとったとしており、だからこそ次世代に核時代の“負の遺産”を押し付けてはならないと締めくくっている。

外国人観光客が1番行きたい「広島平和記念資料館」

いま、日本を訪れる海外からの観光客に一番人気の観光地は、東京や京都ではなく広島の原爆ドームと広島平和記念資料館となっている。世界の人々は、美しい景観、驚異的な自然、人類が遠い昔に残した数々の偉大な遺産に関心を持ち、訪ね歩いている。ヒロシマの原爆ドームも1996年12月に、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産に登録されている。

しかし、世界の人々は美しい絶景や偉大な遺産だけを見るために旅をしているわけではない。ヒロシマは、ポーランドのアウシュビィッツ(アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所)などと同様に、人類の忘れ去ることのできない"負の遺産“でもあり、同じ過ちを2度と繰り返してはならないという意味で多くの人々の心に訴えかけている。

そこで、広島の原爆投下について、広島平和記念資料館が1999年に発行した『図録 ヒロシマを世界に』に基づいて、経過を振り返ってみると。

原爆投下目標の決定

原爆開発については、1943年当時のルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が、原爆に関する情報の独占について取り決めを行い、両首脳は1944年9月に原爆が完成したら日本に対して使用することを決めた。

1945年4月以降、目標検討委員会が数回開催され、京都、広島、横浜、小倉の4都市が目標に選ばれたが、朝廷があった京都はのちにはすざれた。

原爆実験成功から9日後の同年7月25日に原爆投下命令が下され、翌7月26日に日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表されたが、日本がこれを受諾しなかったため原爆投下は不可避の情勢となった。

1945年8月6日午前8時15分 原爆投下

原爆投下の特別部隊は1944年9月に編成された。爆撃機B29の熟練パイロットであるティベッツ大佐が部隊長に任命され、米国内で投下のための訓練を積んだ。1945年7月には米国本土から原爆投下の発信基地であるグアム島近くのテニアン島に移動。

同8月6日、機長ティベッツの母親の名前を付けた原爆搭載爆撃機B29「エノラ・ゲイ」は、爆発観測と記録撮影のための随伴機2機とともにテニアン島を発進、午前8時15分広島市の相生橋を照準に原爆を投下した。43秒後、相生橋の南東300メートルの島病院の上空600メートルで原爆は炸裂した。

推計で14万人が死亡

原爆投下時の広島には約35万人の市民、軍関係者らが生活していたと考えられている。原爆が爆発した瞬間、灼熱の火球ができ、きのこ雲が湧き上がった。火球の中心温度はセ氏100万度を超え、爆心地周辺の地表の温度は3000~4000度に達したとみられている。

同時に、強烈な熱線と放射能が四方に放射されるとともに超高圧の爆風が起こり、広島市内は跡形もなく破壊され、甚大な被害を受けた。原爆による死亡者総数は、今でも正確に把握されていない。しかし、広島市の推計によると、原爆による急性障害が一応おさまった同年12月末までに約14万人が死亡したと推計している。

原爆死没者慰霊碑(正式名称「広島市平和都市記念碑」)

2年後から始まった平和記念式典(平和祭)

広島市は毎年8月6日、原爆被爆者のめい福を祈り、核兵器廃絶、世界平和の実現を祈念して「平和記念式典」を開催している。毎年国内外から約5万人の人々が参列している。最初の式典は1947年8月に開催された「平和祭」であり、参列者は約2000人だった。第1回平和祭で、当時の濵井広島市長が「平和宣言」を発表、以後歴代市長が平和宣言を発表し続けている。

また、1955年8月には平和記念資料館が開設され、被爆の実相を継会える資料集めとそれを後世に残す作業が今でも継続されている。

平和記念資料館に展示された被爆者を見入る児童

世界遺産登録された「原爆ドーム」

国内外の多くの観光客が訪れる「原爆ドーム」は、1915年に「広島県物産陳列館」として開館したもので、物産の展示・即売や博覧会などが行われていた。原爆投下で大破全焼したが、その残骸をとどめた建物はいつしか「原爆ドーム」と市民らから呼ばれるようになった。

保存募金活動によって数回の保存工事が行われ、平和記念公園の一角に当時のままで残されている。鉄柵で囲まれた敷地内には、レンガのがれきが散乱し、原爆による被害がいかに強烈だったかを今にとどめている。

 

カバー写真=「原爆ドーム」といわれる旧広島物産陳列館

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